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37号「大地に根ざして生きる」
ある朝出社すると会社の入り口に山積みのジャガイモ、玉ねぎがありました。前日の会社畑からの収穫物でした。素人の小さな畑でも、これほど採れるのかとカゴ一杯の野菜を見て嬉しくなり、早速初ものを神棚にお供えして、みんなに山分け。人数分の山が手際よく作られ、丁度いらしていたお客様にもお福分けでき、とても喜んで頂きました。豊かな実りと喜びをもたらしてくれる大地の力に感謝です。
今回のBeな人― 渡邉尚さんは、さまざまな活動をされていますが「大豆レボリューション」はその柱となる活動です。日本人の暮らしに不可欠にも拘らず自給率わずか5%の大豆ですが、各地で種取りしながら育てられてきた地大豆(在来大豆)は300種以上あるそうです。安全で美味しい大豆を作りたい人たちが種大豆オーナーとなり、提携畑で、地大豆の種を蒔き、育て、収穫し、手前味噌仕込み迄します。大豆の自給率を上げ、都市と農村のハッピーな循環と、農業体験を通して食を見つめ直すきっかけにしようと、2004年から始められたものが全国20数か所に広がり、今も拡大中で、半農半漁ならぬ、半農半Xの第一ステップとして大豆でつながる、ゆるいコミュニティづくりをされています。
先日、久しぶりにモンゴルの遊牧民研究者の小貫雅男先生が提唱される菜園家族の本を開きました。2001年に発行された「菜園家族レボリューション」に、『現代は自分達の未来を自分達の頭で考え、選択できない事が大きな問題で、夢見る勇気さえ失っているが、人間にとり本源的で大切なものは原初的な生きる力。農的暮らしは競争原理で失ったものを取り戻す確実で手近な道。100%給与に頼る生活から自給率の高い、バランスの良いところに戻し、大地に根ざした精神性の高い私たち自身のための暮らしの形を求めよう。』とあり、“週休5日制による菜園家族構想 ― 週のうち2日間だけ従来型の職場に勤務し、残りの5日間は自家菜園で農作業をしたり、商業や手工芸などの自営業を営んで暮らす ”に、感動して、2004年滋賀県立大学で開催されていた小貫先生の社会人教室へ通っていました。そこには、さまざまな農的暮らしを目指しておいでの方が集まっておられワクワクしました。とは言え、まだ右肩上がり驀進中の社会で週休五日制は遠い話しのように思えたものでした。でも、今や製造業では週休3日、4日のところがとても増えています。注文がないので週に1日しか稼動できないという話もちらほら耳にします。期せずして菜園家族構想の条件が整ってきました。
先日開催したロケット開発の植松努さんの講演会は刺激的でした。「稼働率30%を目指し、できるだけ作らない、売らないをモットーに、暇があるからロケット開発ができた。仕事がないから、新しいことを始めるチャンスがある。自分で作らないと能力は奪われる…。」メモを取る手が追い付きません。終日ご一緒させて頂き、観察力のすごさが印象的でした。同じ光景を見ても受け取る情報量、深さが全く違います、えっ、あの瞬間で、そんなことに気づけるの!と驚くばかりでした。「大切なのは、ゼロから1を生み出す力」と話されますが、1から勉強するところから始め、実験装置から何から、何でも作ってこられたからなのでしょう。日本が明治維新、戦後復興を驚異的に成し遂げられたのも、創意工夫して作る力があったからで、それは、自然と共に生きる中で培われたものと言われます。誰かにしてもらう、欲しい物は買うのが当たり前になってきて、失ってきたものの大きさは計り知れない気がします。
「物不足の時代には大量生産は大切だったけれど、豊かになった今は、売上を維持する為に、必要の強制、消費の強制をしてはいけない。節約した方が豊かになる社会をつくらなくてはいけない」と、植松さんの次なる夢は生活コストを下げる社会づくり。その第一歩として学校づくりを始められています。生活の質を変えることで、意識も変ります。丁寧な暮らしは、大量生産・大量浪費の拡大経済の仕組みを大きく変えてゆくことでしょう。「種をまいて、『なんで生えないのよ!』と言ってはいけない。生える為の努力をしなければいけない。人が持つ輝きを見つけ、それが伸びるような手助けを互いにする。作る喜びを知り、お金で買えない喜びを知れば、お金なんてどうでも良くなる。人の可能性は、まだいくらでも伸びる」と講演録の植松さんの言葉が心に響きました。
「世界初は、すべて個人の自腹から」とロケット開発も、学校づくりも助成金なしで進めておいでの植松さんのお話を伺うと勇気がでます。未来は他人にまかせればすむことでなく、私たちが自ら切り拓いてゆくもの。どうせ無理と、足をすくませないで、手をつないで共に動けば、一つ一つ、一歩一歩のすぐ先に、かけがえのないいのちが活かされる社会が待っていると思います。
悠久の時空の中 人は大地に生まれ、育ち、大地に帰ってゆく(菜園家族より)
参考図書「森と海を結ぶ 菜園家族」小貫雅男/伊藤恵子著 人文書院
「植松努講演録 信じる力」NPO法人読書普及協会編
41号「感じること・味わうこと」
全身緑に染まりそうな気がするこの季節は、自然の息吹にあふれ、一口に緑といっても数え切れないほどの微妙な色合いの違いにため息が出ると同時に、それを味わえる有り難さで胸がいっぱいになります。
今回のBeな人、野村哲也さんの写真集「PATAGONIA」には、自然にはこんな光景・色があるのかと驚かされる写真がたくさんあります。カメラを構えていると、自然からシャッターを押してくれる瞬間があり、撮るものでなく、撮らせてもらうものと感じられるそうです。「木を植えましょう」と本の著者正木高志さんが、人間の側でなく、自然の側に立ってものごとを感じられるようになったきっかけは、奥様がガンと分り、思い悩んで公園を歩いていた時のこと、「私も病んでいる」という声が聞こえ、見回したところ、声の主は桜の木で、驚いてよく見ると痛んでいて、木の痛みがほとばしるように伝わり、周りのつつじや、湖、湖の魚たちも病におかされていることに気づいて環境を良くしようと、木を植え始めたら、喜びが大きく、まわりの自然が家族のように親しく感じられるようになられたそうです。
海の生き物たちにとり、海はお母さんのようなもので、暮しの快適さは水の質に左右され、川を流れる水の質は上流の森の状態にされるから、山に木を植えると山のお母さんだけでなく、海のお母さんも大喜びして愛のシャワーを注いでくれるので、木を植えるようになってから驚くほどの幸運に恵まれるようになったと言われます。
私たちは身体も意識も食べもので成り立っています。いつの時点で食べたものが私になるのでしょう。分子生物学者の福岡伸一さんの著書「動的平衡」を読み、いのちの仕組みのすごさに圧倒されました。マウスの実験で、身体を構成しているタンパク質は、なんと3日間で全て食事で摂ったものに置き換わり、元々身体を構成していたアミノ酸は無くなったそうです。食べたものは消化酵素で低分子化され、消化管壁を透過して体内の血液中に入り、全身に運ばれてあらゆる細胞に取り込まれ、新たなたんぱく質に再合成されていきます。その合成と分解を繰り返すのが生きているということとありました。環境は、常にわたしたちの身体を通り抜け、容れものである身体自体、通り過ぎつつある分子が一時的に形つくっているにすぎず、あるのは流れそのもので、生命現象は、構造でなく効果という文章が心に響きました。環境にある全ての分子は大循環の流れの中にあり、私も、地球という生命体の一つの細胞として、やってきて、また環(かえ)るという循環の中にいる自然なのだと、ヨガのあるプログラムでの実感が思い出されました。
自分の身体を抱きしめ全身をさすっていた時、小さい頃から病弱だったことも、さまざまな問題も、魂が行くべき方向へ導き、守ってくれていたことなのだと思われ、身体に意識を向けて感じることは魂の声を聴くことであり、地球の声を聴き、宇宙の摂理を生きることなのだという気持ちが、心の奥深くから湧き上がり、何故かとても安心できました。
現代人は忙しくて意識が外に向き、内を見ないので、自然とのつながりを忘れてしまうけれど、心を奪われるほど美しい光景に出遭うと自意識を超え、心の奥の自然そのままの本性が目覚め、自然に没入して、我を忘れて“ああ!”と感動し、自然との一体を経験する。その感嘆詞こそ、日本人の美意識で最上位に置かれてきた“あはれ”の語源ではないかとの文章に、だから花咲き、鳥が鳴いていてくれたら幸せと思うのかと腑に落ちました。
野村哲也さんの写真集にはこんな言葉があります。「言葉が溢れ出るとき、シャッターが押されていくとき、自然の深遠に潜む何かとつながっているような気がしてならない。成長の過程で自分を規定するフィルターを沢山持ちすぎてしまったのだろう。でもそれらが何かの拍子でふっと溶け去ったとき、地球の根源にある古い記憶とつながってゆく。生命は皆、根源を一つにし、見えない計らいによって生かされているのだから・・・」
ヒトの身体の細胞もほぼ半年で、骨でも3年でほとんど入れ替わるそうです。私たちは常に新しい自分を生きている筈なのに、過去の体験や、与えられた評価等、記憶を再生し続け、それに縛られて、今を味わって生きることを難しくしています。ある人が、若い時の私は前世のようなもの…、と言われた言葉にはっとしました。そうなのだ、わざわざ手放したい悩みを引きずって歩くことはないのだと思え、とても気が楽になりました。感じ、見つめ、手放すことで執着(しゅうじゃく)から離れ、紛れもなく、自然の一部であり、環境である自分の一瞬一瞬の最善を味わい、存分に生きられるようになるのではないでしょうか。
「真の宗教とは真に生きること、つまり、自分の魂と善良さと正義のありったけを込めて生きることである。――アルベルト・アインシュタイン」
参考図書:「蝶文明」正木高志著 さんこう社刊
「動的平衡」福岡伸一著 木楽舎刊
42号「見えないものに支えられ」
今回のBeな人伊勢戸さんと、ある会で同席した折、どんな願いや、思いを持って仕事をされておいでか書いて頂けたら、とお願いしました。すると、いたずらっぽい目で、「見えない世界のことでも良い?原点というと、そこにあるけど」と言われましたので、ゼヒ!とお願いしました。私に小人さんは見えませんが、小さい頃から、目に見えている世界を支えているのは、見えない世界というのが実感でした。大人が否定的な言葉を口にしていると、それが本当になりそうで、「止めて!」と心の中で叫んでいたものでした。魂の声を聴き、魂の願いに添って生きたい。だからこそ、宇宙の摂理を知ることへの渇望がずっとありました。そんなことは口にしてはいけないかと思っていましたが、映画ガイアシンフォニー第二番で、「たましいのことを語ることを憚(はばか)ることなかれ」と話される場面を観て、ほっとした気持ちになったものでした。
八百万の神々の国で、生きとし生けるものすべてに神を感じ、仏性を認めていた日本人。江戸・明治の頃、訪れた外国の人たちに驚くべき教養高い民族だと驚かれたという文献が沢山あります。それが、何故これほど科学万能となり、証明されないことは認めず、節度を無くしてきたのか不思議でなりませんでした。高度成長以降もどんどん経済成長を目指し、これでもかというほど新しい製品が作りだされ、ITの発達はどこまでゆくのか分からないほど便利すぎる社会になって、私たちは、生きる力を弱らせてしまっています。一体どこでボタンをかけちがえたのでしょう。
哲学者内山節さんの著書「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」に、『第二次世界大戦で、神国日本が、物量の壁を超えられなかったことが、経済成長・科学技術に対する強い希求となり、経済が戦後日本を支配する神として君臨するようになり、科学的に説明のつかないことを迷信とする精神風土を創りだした』とありました。生命科学者の中村桂子さんは、「便利な機械がたくさん生まれ、あまりに人工に偏りすぎ、人間も基本的に他の生きものと同じ存在であることを忘れて、生きることを取り巻く状況がおかしくなっており、本来分からないものを全て分からせようとし、本来理解しあわなければいけないことを分からないといってすませてしまう。それを逆にするのが、生きものを基本にする考え方であり、生命を大切にすることにつながる。」と書かれています。
ドキュメンタリー映画「ミツバチの羽音と地球の回転」を観て心が揺さぶられました。山口県上関町で進められている原子力発電所建設に、26年間反対している1000年続く祭りのある祝島の人たちと、エネルギーの自給自足を選んだスウェーデンの小さな村の様子を撮影されたものです。「こんまいのもとってしまうから」と、網を打たず1本釣りで生計を立ててこられた漁師さんの言葉。北海道から戻り、途方に暮れるほどの荒れた休耕地で放牧豚を飼い、その豚が土を掘り起こし、見事に畑になる様子や、ストを続けるお年寄りたちの表情に、自然の恵みに感謝し、地に足をつけて生きる確かさを感じました。埋め立て許可を巡るやり取りでは、憤りを感じると同時に、この豊かな自然や、1000年以上続く暮らしを壊してまで作る原発は、都会で便利に暮す私たちが消費する電力のためかと思うと、やるせなく、本気で暮らしのあり方を見直さなければと思いました。そして、スウェーデンのエネルギー自給自足の取り組みに、やればできることを選択しないのも、また自分なのだと思いました。
「微生物様は神様です」が口ぐせの平井孝志先生は、時間はエネルギーと言われます。科学が進み、自然も人間の自由にしてよいかのようにふるまっていますが、自然界の何ひとつ人間が生み出すことができるものはありません。46億年かけて育まれた多様な生命、そして、文明・文化。壊れたら取り返しのつかないものばかりです。
空気、微生物、信じる力、つながり…大切なものは目にはみえません。私たちは、目にみえないさまざまなもの、ことに支えられています。江戸時代の人は、目の前の人を仏様と見て、一期一会を大切にし、紙に書いた程度のことよりも、口約束を重く見ていたそうです。お天道様、ご先祖様、魂、内なる良心…、何であれ見えないものに支えられている実感があると、判断を大きく間違わないような気がします。自然を生かしながら、人間も自然の一部であるという日本人が得意としてきた古くて、新しい生き方につながる新しい文明を目指す時期が来ています。
「我々に必要なのは、生命の豊かさと、多様性に対する感受性を高め、手つかずの自然を心から慈しむことによって、限りなく幅広いよろこびの扉をひらくことである 」
ディープエコロジー 地球の声を聴くより
参考図書「日本人はなぜキツネにだまされなくなったか」内山節著 講談社現代新書
「『生きもの』感覚で生きる」中村桂子著 講談社刊
43号「畏敬の念をもって生きる」
ある日、本が届きました。グロッセ世津子さんが翻訳された薬用植物療法の大家であるモーリス・メセゲ氏の著書「自然が正しい」という80年代フランスの大ベストセラーの初邦訳本でした。「本気で自然と付き合いたい人に贈る心に響くメッセージと野菜・ハーブの活用法」とありました。健康に役立つ話や、レシピが満載されたユーモアに満ちた本ですが、冒頭に1972年から1989年フルーランス町長だった時取り組まれた、町民の健康と豊かさのための安全な食べ物の生産と普及について書かれています。農薬や殺虫剤等化学物質の実態を知らせると共に、買い物かごとゆるぎない信念で環境汚染を地域から撲滅できる、と主婦を励まし、小売店に安全な食品を求め、小売店から卸業者に、そこから生産者へと同じ要求を伝えて運動が広がり、自然食の供給地として有名になってゆきます。
より深刻さを増している現代ですが、今この本が翻訳されたことに希望を感じました。「環境の専門家が示す環境汚染で全滅した種の統計より、私の手の中で死んだ鳥の方がかわいそうに思えるのです」という一文に、私の目の前で砂浴びしているスズメの鼓動が、伝わってくるような気持ちや、階段に上向きで落ちているセミに指をさしだした時、ギュッとしがみついてくれた嬉しさ、こんな感覚こそが、一生懸命生きている同じいのちへの共感であり、生きとし生けるものとのつながり感なのではないかと思えました。
生物多様性がいろいろ話題に上るようになり、恐竜から哺乳類の時代に移行する過程を取り上げたテレビ番組を観ました。小さなネズミのような哺乳類の祖先は、恐竜の時代を逃げまどいながら生き延び、少しづつ進化し、沢山の種が生まれ、今のようになるまでの気が遠くなるような長い歴史でした。40億年の生物の歴史をありありと感じることは難しくても、身の回りにある時間の積み重ねが育んだものは感じられます。
我が家のある集合住宅は、敷地内に沢山のケヤキがあります。入居した当初ひょろひょろだった木々が、27年間のあいだに大木となりました。根が排水溝を壊したりするので、数本伐るという話が持ち上がり、我が家のベランダの前にある樹も候補にあがった時のショック。その樹に挨拶して私の朝が始まり、季節の移ろいを真っ先に感じさせてくれます。目の前に大きな樹が立っていてくれることで、どれほど励まされ、慰められ、落ち着かせてもらっていることでしょう。それが無くなるかもしれない…、うろたえました。決まるまで、その木に、伐られないでね、と声をかけていました。候補から外れ本当にほっとしました。山が削られているのを見ると山が蹂躙されているようで苦しく、干上がったダム湖に沈んだ村が、その姿を見せていると胸が締め付けられる思いになります。山も生物も、文化も長い時間をかけ育まれたものです。
日本には、人間界、自然界という分け方はなく、自然は、ジネンと読み、シゼンにあたる言葉がなかったそうです。内山節さんの「自然の奥の神々」という本にありました。「山川草木悉皆成仏(サンセンソウモクシッカイジョウブツ)」と言われますが、インドから入った時は、「一切衆生悉有仏性(イッサイシュジョウシツウブッショウ)」だったのが、自然と人間を分ける発想のない日本人の感覚に合わず、「草木(そうもく)国土(こくど)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」――草木はすべての生き物という意味で、人間も含まれ、国土も国家や領土を示すのでなく、生き物の世界の土台となっている山や川、岩、土を示す言葉で、すべての生き物も、その土台である山や川や岩や土などもすべて成仏する――と変わったそうです。しかも人間を除くすべての自然は成仏しているが、「私」や「自分」というものを持ち、欲のある人間は、悟りを開けないでいるから、オノズカラ生きている自然と一体化することを通して、悟りを開き成仏できる、自然を神としてみる「まなざし」が生まれたそうです。
今回のBeな人、辻川さんのお話を伺い、諸外国の人たちに、この国は手強いと感じさせた、という成熟した昔の日本人に、ジネンを生きた、いのちへの深いまなざしを感じました。いらぬいのちはない、出会う人みな仏。土の中の小さな生きものを慮る気持ち。生まれただけでは、ただのデクノボウで、心の糸がつながってなくてはいけないと、大人が自分のこどもだけでなく、近所のこどもたちにも愛を注ぎ、人の在り方を教えたそうです。
メセゲさんは「女性がお望みになることは、神がお望みになること」と、世のお母さんにエールと期待を寄せ、「特権的な立場にいる私たちも、貧しい人・恵まれない人も健康が欲しい。友達である動物も、鳥にも蝶にも花にも健康が欲しい。彼らがいなければ地球はなんと味気ないものになることでしょう」と、身近な植物も動物もみんな入る日々の生活と、その中で見つけられるささやかな喜びや楽しみを何より大切にする「幸せになるセンス」を磨いて「幸せになるレシピ」を実践しようと書かれています。
暮らしやすい社会とは、長い時間を見る部分がしっかり存在する社会と言われます。いのちへの畏敬の念を持って、丁寧な暮らしを楽しみながら未来を変えていきませんか。
楽しみは 朝おきいでて昨日まで 無かりし花の咲ける見る時 ―― 橘暁覧
参考図書「自然が正しい」モールス・メセゲ著グロッセ世津子訳 地湧社刊
「自然の奥の神々」内山節著 宝島社刊
44号「生きる力を取り戻そう」
名古屋で開催されたCOP10が終わりました。沢山のNGO,NPOの方々がさまざまに活躍され、「生物多様性」に関心が向けられるようになりました。けれど、大量生産・大量浪費・大量廃棄の社会の仕組みそのものを変えるうねりに至ってはいません。現代社会はまるで砂のお城のようです。作っては壊し、壊しては作り、エネルギー・資源を浪費し、自然の浄化力をはるかに超える汚染を振りまいて発展という不思議。土地も地下水も大自然が生み出したものを勝手に使い、つけを未来に残すばかりです。今回のBeな人、渡辺さんが提唱されるような、未来の子孫や、生き物たちからの視点が大切で、自然から奪い続けてきた文明から、共生文明へとギアを切り替えなければと思います。
「減速して生きるーダウンシフターズ」の文中「輸入して食べ残す国に未来はあるか」という一文に、「マグロ2切れで10分間のカロリーを摂取でき、その2切れのマグロにイワシ1000匹がいのちを捧げ、1匹のイワシに5万匹のオキアミが、1匹のオキアミに500兆の動物プランクトンの命が捧げられている」とありました。日本の食糧廃棄率は世界一で、年間6000万t以上輸入し、約3分の1を廃棄、その半分以上が家庭からで、1日当たり3000万人分を捨てているとの統計に愕然としました。中国の人たちが自国の食品は不安だからと高い日本の食料を買い、日本人は、その不安な食料を安いからと求めては捨て、国内の産業はやせ細るばかりです。質の高い安心な国産の食べ物を、残すことなく使い切れば、食べ物の命を全うさせ、心ある生産者を応援できます。日本の野菜は世界でも有数の多様性に富み、調理法も類を見ないほど多彩なものだそうですが、各地域の伝統野菜もどんどん失われています。野菜も、伝統の技も失ったら取り戻すことは至難の技です。
サティシュ・クマールさんは、持続可能な暮らしとは、節約して減らすことでなく、無駄の多い生活から、質の高いエレガントな暮らしに形を変えることと言われます。蜂が花の蜜を集め、蜂蜜に変えるように、お金を儲けるだけでなく、何かを生み出すこと。料理、ガーデニング、陶芸、木工など、体を使って何かを作る技を学ぶことで、創造の喜びと、自分で自分の人生を営む自信を取り戻すこともできます。
自作の廃食油精製装置を車に積み、天ぷら油等を各地でもらいながらバイオディーゼルで世界一周された山田周生さんから伺った話が心に残っています。前後左右すべて砂のサハラ砂漠の中でも、ある時、自分が風であり、空気であり、砂粒になり、進むべき道筋が1本見えるそうです。あとはその道を進むだけ。言葉が通じない国でも、廃食油をもらいながら世界の奥地も一人で旅を続ける中で会得されたことは、「受け入れる・感謝する・ゆるすこと」。そして「問題の答えはすぐ近くにあり、難しい問題ほど足元に答えがあるので、目の前のことに一生懸命になること」と言われました。お話を伺いながら、自然と一体になって生きることの力と、都会で暮らすとは、目に見えない大きなシェルターの中に住んでいるようなもので、壁を作っても生きられる代わり、奥底に眠る直観力や智恵、野生等、進化の過程で身に付けたさまざまな力を失っているのではと感じました。
うわべの豊かさやお仕着せの安心でなく大地に根を下ろし、自然と溶け合い、家族・友人・見知らぬ人とも仲良くおおらかに楽しく生きたいという素朴な人間本来の願いを生き、未来へつないでいきたいとの想いを持つ人が増え、“降りてゆく生き方”、“ダウンシフターズ”、“トランジションタウン”等、さまざまな取組み、生き方を実践されています。
モーリス・メセゲさんは、化学汚染から未来の子供たちを守るため、主婦を励まし、町を「質を提供、生産するコミュニティ」に変えられました。「専門家が示す環境汚染で全滅した種の統計より、私の手の中で死んだ鳥の方がかわいそうに思える」気持ちや、「鳥や蝶や花にも健康が欲しい、彼らがいなかったら、この地球はなんて味気ないものになるでしょう」と、身近なささいなことを喜べる幸せのセンスを磨き、幸せのレシピを実践することで、歩みが事の成り行きに翻弄されず、一人ひとりが感じる内なるリズムによって刻まれるよう、私たちにできることを提唱されています。
大海も水の一滴の集まり。一滴の蛇口を握っているのは私たち生活者です。自分の魂の願いを生き、暮らしの質を変える事が未来につながっていることは大いなる希望です。
参考図書「減速して生きるーダウンシフターズ」高坂勝著 幻冬舎刊
「こわれかけたこの星に今してあげられること」
サティシュ・クマール/エハン・デラヴィ 徳間書店刊
「自然が正しい」モーリス・メセゲ著グロッセ世津子訳 地湧社刊
「菜園家族宣言―人間復活の高度自然社会へ」小貫雅男著 里山研究庵
45号「もうやっこしよう」
「もうやっこしよう」・・・ふっと懐かしい言葉が頭に浮かびました。「もうやいこ」とか他地域では「おもやいする」とも言われるこの言葉、船を停泊させる時、何隻もの船を綱でつなぐ舫い(もやい)が転じて、何かを分け合ったり、一つのものを共有して使う時や、共同で作業する時に使われ、子どもの頃は、もうやいするのが当たり前でしたから、果物が丸ごと食べられると「わーい、丸さらだぁ」と大喜びだったものでした。いつ頃からか耳にも、口にもしなくなりました。豊かになり、何でも自分のものにでき、お金で解決できるようになったからでしょうか。
久しぶりにコミュニティ・ユース・バンクmomoの木村さんにお目にかかりました。自分の暮す町で子や孫も暮していけるよう、お金で切れたつながりが、お金を通してもう一度つながる「お金の地産地消」を目指し、市民の出資金を志ある事業に融資し、顔が見える関係をつくり、融資先が成長するから、出資者も嬉しいという世界を進めておられます。
ある日のメルマガには「それぞれの"できること"を持ち寄る今回のチャレンジに、ぜひあなたも"できること"(=寄付)でご参加下さい」とありました。都会で地元のこだわり野菜を扱う八百屋さんの手不足を、先に融資を受けているNPOさんが特別価格で応援されることになりました。が、まだ資金の壁が高いので、momoでも寄付を募る手伝いを始められたものでした。先に融資を受けた人が、新たに事業を始める人の応援をし、貸し手も、出資者も、みんなで困りごとを解決し、良い社会を創ろうという取り組みの素晴らしさ。届くメルマガを読んでいると何か自分でできることがあれば応援したい気持ちになります。
日本には寄付文化がないと言われますが、相手の顔が見えれば、何かできることをしたいと思う気持ちはあると思います。元々日本の民衆は、平等にお金が落ちず、金持ちや貧乏な人が生まれるのは社会の欠陥なので、一時的に自分が預かったお金は皆に戻さなければならない「天下のまわりもの」であり、自己所有物としてのみとらえない精神があって、お金持ちはさまざまなことに私有財産を投じたそうです。大旦那のいない現代は、市民がパトロンになりあい、支え合う時代になってゆけば良いのではないかと思います。
山元加津子さんが毎日配信される脳幹出血で倒れた親友“宮ぷー”の日々を綴るメルマガは、祈りの力や、命の素晴らしさへの共感を共にし、時に、読者が困っていることを投げかけると、それに山元さんのみならず、多くの人が応え、励ますといった場になってきています。今は、思いがあるにも関わらず、身体のどこも動かないため意思表示できない状態の人や、何らかの理由で気持ちが伝えたくても伝えられない人も気持ちを伝え合えるように、「意思伝達大作戦」を始められ、共感した人たちがさまざまに動きだされています。“宮ぷー”こと宮田さんと山元さんお二人の新著の中に、こんなことが書かれています。「星の王子様がキツネに友達になってと頼んだ時、キツネは、『特別な関係になるには、毎日同じ時間に来て、心をかけて大切にしないと特別にはなれない』と答えているように、心をかけることで相手の悲しみや苦しみ、喜びや楽しみが自分のことと感じられるようになります」…と。
momoの木村さんが、「関係性をつくるのは問い」と言われた言葉が心に響きました。関心を寄せないと問いは生まれません。心を寄せ、手をかける事で生まれるものの大きさを、効率を追ううちに見失ってきたのではないかと思います。かっこさんの大作戦、momoの活動、てんぷら油を頂いて地球を走る今回のBeな人、山田さん・・・それぞれに、人の温かい気持ちを引き出し、関わりあって生きる喜びを感じさせてもらえます。自分を一生懸命生きる事が、社会を良くすることにつながることは、なんて嬉しいことでしょう。
わずらわしいことを手放し、快適な暮しを目指し、どんどん個の世界に入った結果、自己責任という冷たい言葉に翻弄され、無縁社会、孤族という言葉まで生まれましたが、さまざまに起こっている流れは、自分の為だけに生きることに虚しさを感じ、温かい社会を願う人が増えていることの表れではないかと思います。私たちは地球に住まわせてもらい、植物や動物の命を頂いて身体を、心を保たせてもらっている宇宙船地球号の仲間。全てが一時与えられている回りものです。預かった贈り物を分かち合い、循環させて安心して生きられる社会にしたいものと思います。もうやっこしませんか?
参考図書「清浄なる精神」内山節著 信濃毎日新聞社刊
「満月をきれいと僕は言えるぞ」宮田俊也・山元加津子著 三五館刊
46号「地球がふるさと」
東日本大震災の翌朝、うつらうつらしながら妙な違和感を感じました。あまりの被害に胸が痛み、眠れなかったせいかと思いつつ意識がはっきりしてくるにつれ気付きました。「鳥の声がしない!」あわてて飛び起き、ベランダに出ました。何時もうるさいくらいのカラスの声も、ヒヨドリも、ウグイスの声は勿論、スズメのチュンという一声もなく、妙に静まり返り、空気が止まっているかのようでした。そのことに怯え、聞き耳を立てながら目を覚ます日が続きました。1週間後、いつも通りの賑やかなさえずりで目覚めた時の嬉しさ。自然が、自然であることはなんと幸せなことかと思いました。
地震・津波のみならず、状況が悪化する一方の原子力発電所に、3月は時が止まったような気持ちで、まるで冬のような寒さも、これで少しは原発が冷えてくれればと、祈るような思いでした。原子力発電に反対と思いつつ快適な暮らしを享受していることが意味する重さを思い知らされ、一層鬱々とした気分をつのらせ、何ができるかしら、何かしなくては、と心が揺れるばかりでした。
そんな折、宇宙物理学者の佐治春夫先生の文章を見つけました。「地球を1メートルの大きさのボールに例えれば、空気の層は1ミリ、海面の平均の深さは0・5ミリ、その下には数ミリの「プレート」と呼ばれる十数枚の岩板がどろどろに溶けて熱いみそ汁の中にみられるような対流を起こしているマグマの海の上に浮かび、その動きにのって移動。つまり、薄皮饅頭のように頼りない地球の表層に住んでおり、そのプレート同士のせめぎ合いが山を造り、一方ではそこでたまったストレスを解放することが地震を生み出すので、地震は地球の全ての地域でいつでも起こっており、今回、東日本を襲った巨大地震は、どこででも起こりえたもので、壊滅した街も失われた多くの命も、すべて、私たちの身代わりだったとも言えます。直接、被災された方々のご苦労には遠く及びませんが、その苦しみや悲しみを、私たち自身も、自分のこととして認識しなければならない理由はそこにあります」
今回の災害とは比べものになりませんが、東海大水害で会社が水に浸かった時のことを思いますと、そのお辛さが思われてなりません。あの時、災害の多い日本で、現代より過酷な時代にご先祖様達は、どれほど天を仰いで悲しみの涙を流しながら立ち上がったことかと想いを馳せたものでした。
災害が多発する国で、いつも死と隣り合わせで、今日助けた人が、明日は助けられる側になり、常に入れ替わっていたことが、「明日は我が身、お互い様」という社会を生み出し、そんな中を、明るく元気に生きていく為にこそ、何も持たず、モノに拘らない江戸の人々の気質が生まれたそうです。明日生きられるか分からない、生きている今、この自分に集中したことが独特の美の感覚を磨いたとも言われます。
天保の大飢饉で一人の死者も出さなかったことでも有名な二宮尊徳翁は、人と自然が共に豊かになれないか、強い人と弱い人が互いに幸福になれないものかと学び続け、見つけた法則は、自然に半分従い(=良く見る、よく知る、受け入れる)、半分逆らう(=対策する、工夫する、実践する)というものだったそうです。
「頼りない薄皮の上に住んでいる地球人全体の宿命を前提にして、人はなぜ戦い、争うのか、もう一度、見つめ直してみたいものです」佐治先生の言葉が胸に響きます。
人は生きるために、その生命を次の世代につなぐため、智恵を絞り、様々な工夫をしながら、風土に適応した生活環境を築き上げてきました。宇宙の中の地球、その上で命の営みをする私たちは、今、どんな工夫をして適応した環境を作れば良いのでしょう。
日本のみならず各国で、さまざまな天災が増えており、これから何が起こるか分かりません。豊かな恵みをもたらし、大きな猛威もふるう自然と共に生きてきた日本人…被災地の皆様の我慢強さ、優しさ、助け合う様子を、熱い想いで見つめる人が国内外ともに沢山おられます。過酷な地球を生き抜いたDNAは、様々な情報を持っていると言われます。ご先祖様達の智恵も、終戦直後の焼土から立ちあがった先人の頑張りもあります。
今回の、辛く悲しいことの奥底に、鈴木重子さんが書かれているように、限界を迎えている「もっと、もっと」の世界が大きく変われる機会を与えられた、そんな希望の芽が息づいている気がします。地球1個分で暮らせるよう、智恵を出しあい、心豊かな、自然と共に生きる安心な社会を創ることができれば、犠牲となられた方たちに喜んで頂けるのではないでしょうか。おおらかに笑いあえる日の訪れを切に願っています。
青い空 みどりの森 手を取って 地球(ほし)にかえろう
草も木も 鳥も虫も 私たちの仲間
いのちの声は歌う “ここがふるさと”
( 鈴木重子作 「みきちゃんとブナの木」より)
47号「自然と共に生きる」
全村避難とか、警戒区域と、ほんの数文字で書かれることのなんという重さ。代々守り育てた森・田畑、一生懸命営まれた事業。その人と一体化しているような地を、突然離れなければいけない辛さ、守らなければいけない命。降って湧いたように難民状態にならざるを得ない方々に対し、何ができるのかと心痛む日々…。今回のBeな人、けるぷ農場の佐藤さんとお目にかかったのはそんな中でした。
佐藤さんは、自然農で栽培した大麦や草を飼料に、鶏を広いスペースでのびのびと育てられています。窓もない鶏舎でぎっしりケージ飼いされ、歩くと骨折するという鶏たちとのなんという違いでしょう。だからこそ、「ピンチをチャンスに変えるべく、農場の浄化に取り組みたい」と語るようになられる迄、どれほどの葛藤を超えられたことかと、清々しい笑顔を見ながら思いました。
飯館村の名前が出た時は、胸が詰まりました。べてる祭りや、エコ・ブランチで一緒に仕事をしていた小林麻里さんが暮らす村です。4年前訪ねた時の青い空、寝転んだあぜ道のやわらかな草、満開の桜、森の木々等が瞬時に脳裏をかすめました。連絡が取れない間の落ち着かなさ。やっと話ができた時は、ほっとしましたが、事情はどんどん悪化し、どうなることかと気が気ではありませんでした。けれど、亡き御主人の宝物のような森を後にしなければいけないかもしれない…、最悪のそのことが、自然が自らを自らの力で癒していく過程に寄り添い、人間にどんな手伝いができるか探っていきたい、と心を定められたようで、こんなことを書かれています。
「放射能によって生態系に悪影響が出ることが危惧されています。生き物たちは誰に文句を言うこともなく滅びて行くのです。これまではそうでした。これからも人間だけが生き延びて、生き物たちだけが静かに滅びていくのでしょうか・・・人間が生き延びることだけを考えて、放射能を除去するために自然を破壊するようなことをしたら、結局は人間も滅びることになると、この場所で蛙たちの合唱を聴いていると強く思います。…」
今、自然と共に生きる生き方に舵を切り替えなければ、ほんとに未来はないのではないかと思います。麻里さんも郡山の佐藤さんも、原発を許してしまってきた自分たちにも非があると考えられ、単に放射能汚染浄化だけでなく、豊かな自然を、心を取り戻したいと言われます。「微生物様は神様です」と言われる平井先生は、地球にいのちが生まれて45億年、25億年くらいは放射能だらけだった中を、微生物はミネラルとともに、いのちをつないできており、何とかする力がある筈と言われます。実際チェルノブイリでも微生物は効果を発揮したそうです。
いのちは、とても不思議です。山元加津子さんが寄り添っておいでの脳幹出血で倒れられた宮ぷーさんは、医学の常識をどんどん塗り替え、車椅子に乗り、口で食事をする練習も始め、言葉も出始めています。生命科学の村上先生は、心が身体に大きな影響を与え、遺伝子のスイッチをONにすること、祈りの思いもよらない力について語られます。科学の予定通りになることばかりではないでしょう。生きている微生物は、使う人が単なるモノと見るか、信じ、祈りを持って接するかによっても効果が違います。「放射能はニコニコしている人に悪さはしない、クヨクヨしていると悪さをする」ある放射能研究者が書かれた文章にありました。
放射線の危険性は言うまでもありません。避難できる人はした方が良いと思います。でも、長い間大事に育み、守ってきた土地から離れられない方も沢山おられることでしょう。殊に友人がそうであれば、微生物を信じ、遺伝子を信じ、可能性のあることに、共に手を尽くしたいと思います。今、仲間たちと一緒に、佐藤さんや麻里さんと、微生物さんの力を借りて大地を再生しようと「うつくしま福島再生プロジェクト」を進めつつあります。
電力を確保しなければ経済活動が落ちる、と原発の再開を望む声も聞こえます。まだこの上地球や未来につけを廻すのでしょうか。これまでエネルギーを、資源を浪費し、不必要な物を作り、効率を追い、経済発展させてきました。ゆきすぎた効率化で多くの会社が消え、居場所を失っている人の何と多いことでしょう。
私たちは、知らず知らず、いのちの本質からかけ離れた暮らしを続けてきました。今回のことが、何を引き受けるのか、と生き方や、心のあり方を深く問いかけてきます。身近ないのちを大切にして、手を差し伸べあって調和を取り戻し、生きる希望を与えあいたい。どこかの、誰かの不幸の上に咲くあだ花のような繁栄とは訣別し、いのちがまっとうされる社会にしたいと切に願っています。
「本来の日本は自然と共にあり、協調や協力を重んじてきた。和の精神とテクノロジーを融合し、最新の科学、最新の知識と伝統的価値観を併せ持つ新しい文明を開く役割がある」アービン・ラズロー博士の言葉です。
48号「いのちの潜在力を信じて」
蝉の声が弱り始めた8月の終わり、福島市の㈱ら・さんたランドさんの全体ミーティングに参加する為、郡山に行きました。避難されたり、ご家庭の事情で辞めざるを得ない社員さんがおられたり、支店の閉鎖等大変なご苦労に関わらず、「モノは被災しても心は被災していない」といつも前向きで、当日も全社員の皆さん素敵な笑顔で運営されていました。配達途上に地震にあい命からがら抜けだされ、直後、仲間と東京へ避難し、仕事も見つけて暮らされている男性が、例年通りミーティングの司会をする為に戻られ、5カ月ぶりの無事の再会を喜び合っておられる姿に胸がいっぱいになりました。
故渡辺俊明さんのギャラリー蓮笑庵さんで、奥様の仁子さんからお話を伺うことができました。ボランティアの方に場を提供されたり、この地から離れられない人たちが、手をつなぎ、福島を“福の島”に変えてゆきたいと活動を始められています。つい最近、避難された人、残っている人、子どもたちを安全な地に出す活動されている県外NPOの方等、様々な立場の人が一緒に話す場を設けられたそうです。それぞれに辛さ、悲しさを抱えておられ、話すうちに互いの苦しさが分かりあえたそうです。現実から目をそむけず、その中で、できることをしてゆこうと、時にはゆっくりゴマをすって丁寧なお料理を作ったり、話し合ったり、いのちについて考えたりする場を持とうと「愛ふくしまひかり塾」を始められるそうです。
終息の道筋が見えず、一層放射能への恐れが高まるばかりです。ただ、放射能さえ消えれば安全かというと、そうではありません。土壌に関する本を読み返していた中にレイチェル・カーソンの本の引用がありました。「放射能が遺伝子に及ぼす影響を知って私たちがぞっとするのは当然である。―それなら、周囲で勝手に使われている農業用化学薬品から生じる同じ影響に、私たちはどうして無関心でいられるであろうか?」この『沈黙の春』の諸前提を調査する委員会で、ケネディ大統領の科学顧問ワイスナー博士は「殺虫剤の使用は放射性投下物(死の灰)よりも危険である」と言明し、イタリアのモスカ博士は、有毒な農業用化学製品は、放射能と類似の作用を持つとして、1970年代アメリカでの化学物質使用量は、広島型原発7万2000個から出る死の灰に匹敵する損傷をもたらしていることになると発表したとありました。他にも、じゃがいもの芽を出させなくする放射線処理に潜む危険性もあります。
放射能を正しく恐れることは当然ですし、人間の手にあまる原発を止めなくてはいけません。けれど、「放射能で危ない」、「早く土地を離れて」、「何としても除染を」…、という言葉の嵐に、福島の方々の中には、二重に傷つかれる方々もおられるのでは、と心にトゲが刺さったような思いが残ります。飯館村にも行きました。真新しい家が固く閉ざされている様や、ススキやカヤが背高く伸びている田畑に胸が痛みました。避難を、と言われても、職や住まいの手当てもなく出て行くことはどれほど大変なことでしょう。大切な思い出の地を後にする辛さ…、一軒の家毎に詰まっているであろう悲しみに圧倒される思いでした。…ですが、希望もあります。「福島に日本発の市民自治が生まれるかもしれない可能性を感じる」ボランティアで度々福島に行っている友人の言葉です。国も、県も何もしてくれないから、気付いた人がそれぞれに動きだし、市民放射能測定所開設等うねりが出つつあるそうです。べてるの向谷地生良さんにそんな話をしたところ「障害のある人達も地震でシャッキリした人が多く、危機は、いのちの奥底に眠る生命力にスイッチを入れる」との言葉になるほどと思いました。飯館村の麻里さんは、“べてるの家”が 目指す、病気のままで幸せ、「~にもかかわらず笑う」というあり方が、今の自分を助けてくれていると言っておられました。
放射能を浴びると数年後ガン患者が増えると言われます。今とんでもない状況にあることは事実です。けれど、末期がんの人が、意識が変わったら腫瘍が消えた話や、共生している話は沢山ありますし、山元加津子さんと宮ぷーはお二人で、脳科学の常識を日々書き換えておられます。量子物理学が、意識が現実を創ることを解明しつつあるように、人は、病気を引き起こす可能性も、治す可能性も持っています。極度の怖れは、人間の本質である感性を弱め、免疫力を下げ、ほんとに病気の引き金を引かないか気にかかります。私たちはいづれ死ぬ存在であることに蓋をして、未来を心配し、今を生ききらないことの何と多いことでしょう。いのちの持つ不思議な潜在力を信じ、いのちと向きあいながら存分に生きてゆきたいと思います。
参考図書「土壌の神秘」ピーター・トムプキンズ著 春秋社刊
49号「生きる作法」
9月に映画「森聞き」上映会を開催しました。・・・「焼き畑のどこが好きですか?」高校生の女の子の何げない質問に、「好きっちゅうことはないけん。ばあちゃんたちの一生の仕事だから。山があるから、そして種を切らさんためにしていくとよ。好きでやっとるとじゃないですよ。生きていくために、すっと」「みんなそうだからね。植物、動物は全部、生きていて、子孫残すために、ちゃんと世渡りを何十年でも、何百年でも、何千年でも、自然とね」高校生がやっと立っているような急斜面で、日本原種のそばの種を守り、焼畑を続けるおばあちゃん。ロープと1本の木切れで、高い木に登り、良質な杉の種を採っている老人等々。誇りを持って生き、大地に生えているような確かさにあふれた森の名人たちと、次第に目の色が変わってゆく高校生。胸が熱くなりました。
10年前、今残さないと日本の文化が無くなるという危機感から始められた「聞き書き甲子園」を続けておいでの澁澤寿一さんに伺ったお話です。最初何人の高校生がレポートを提出するか危ぶまれたそうですが、予想を裏切って全員提出。なぜ、大変な作業をやり通せたかとの問いに、じいちゃん達を裏切れないと思ったから、と答えたそうです。
飢饉の時も一人の餓死者も出さなかったという秋田の村は、いつどこの森に行けば、何が手に入るか人々は知っていて、豊かな共有林が人を助けていたそうです。子供達は都会に出て、継ぐ者がいなくなった今でも、苗を植え続けているおじいさんに、聞き書きの高校生が“なぜ、木を植え続けるのか”尋ねたところ、しばらく考え「山で暮らす作法だから」と答えられたそうです。自然と共に生き、生かされてきた者の作法。好き嫌い、条件を超え、一途に人生を全うして生きる姿に、心を揺さぶられました。
お天道さま、ご先祖様、目に見えないものへの畏怖の念を持ち、次につないでゆくことが自分の生きる道である人たちと、自分の結果を出すことに焦点を合わせて生きるおおかたの現代人。長い時間軸を見失い、行為にすぐ結果を求めプロセスを味わえず、未来の子孫の為に自分のいのちを使うこと、待つことができなくなっています。森聞きを観ながら、地球で生きる作法は何だろう、と想いを巡らせました
「日本人は、今晩のご飯を心配しなくてもよく、明日の命の心配もなく、行動の自由もある。人類が望むすべてを手に入れた」澁澤さんが、以前外国の友人から言われたそうです。私たちは多くのものを受けているのに、充足を得ることがとても下手になりました。
二宮尊徳さんは、幸せ探しの達人で、一つ一つのことに喜びを感じワクワクしながら仕事されていたそうです、一本の松が育つには、太陽の力、水、土の恵みが必要で、長い歴史を背負っているように、育まれてきたものに思いを馳せ、そこに込められたものに気づくと幸福感、有難さが湧き、恩返ししたくなる…、それが報徳思想だそうです。
人は、誰も怖れや怒り、暴力的な感情といった自己破壊的な心の闇(シャドウ)を必ず持っています。個性ある私でなく、名もない一人として集団にまぎれると、心の闇が現われ、悪い行いをしても構わないという考えが高まるそうです。本名を名乗らないネットの書き込みが時に暴走するのもそのせいでしょう。『「生態系の破壊も、地球に対する一種の暴力行為と言えますが、「地球に悪いことをしても何も罰せられない」ため、多くの善良な人が破壊行為に無意識に加担しており、問題を意識すれば社会全体として修正可能な対策があるにもかかわらず、地球から貴重な資源を搾取し続けるのは、意識しない方が楽だから」とチョプラさんの本にありました。私一人くらい、私一人がやっても、と思いがちですが、行動だけでなく思いも大きな力があり、私たちは集合無意識でつながっており、幸福感も不幸感も集団的に共有し、目に見えないつながりが、人生の様々な領域に集合的無意識を持ち込み、社会的感染を引き起こす、と社会学でも言われるようになりました。
今回のBeな人、臼井さんのシャロームに初めて伺ったのは20年程前のことでした。トイレの水は雨水利用。ざるに自分でお金を入れる無人販売コーナーや、洗面台に置かれた小さな台拭きと、“次の人の為の一拭きを”、のメッセージ、バイキング方式のお料理に、“残さず食べる量を…”、とさりげなく、心地よく過ごせる工夫がそこここにありました。
みんなで一つの命を生きていることが、さまざまな分野で明らかになっています。怖れからの行動でなく、恵みに感謝し、手仕事をしたり、質の高いものを丁寧に使うエレガントな暮らしで、人と自然、世代と世代、人間関係をつなぎなおすことができるのは嬉しいことです。必要なのは、気持ちを切り替え、自分たちの手で新しい現実を創出し、共に生きていこうという気づきと覚悟。それが、地球に生きる作法かもしれません。
参考図書「シャドウ・エフェクト」ディーパック・チョプラ他著voice社刊
「宇宙に融けこむエコ・ハートフルな生き方」サティシュ・クマール著 徳間書店刊
50号「覚悟を持ってしなやかに」
私たちは、地球規模の大転換期の生き証人を生きているようです。今号のBeな人、大和先生は、今を三大終末期と表現されていますが、その一つ「文明法則史学」は、故村山節先生が発見されたいわば文明のバイオリズムです。西洋文明は、主に科学を発展させ、東洋文明は、精神文化を発達させ、昼と夜のように800年周期で交互に時代をリードしてきました。その交代期には、天災・異常気象や深刻な食糧不足、戦争等が起こり、2000年頃から今回の新東洋文明への交代期に入っていると言われます。芳村思風先生が提唱される感性論哲学でも、今は西洋文明からアジア文明へ、理性から感性への移行期で、外的世界と内的世界が同時に転換しようとしていると言われ、古代マヤ歴や先住民の予言等さまざまに、今を大転換期と捉えています。
激動の時代に天災が多く発生するのは、人心が乱れ、それに天地が呼応するからかと思っていましたが、満月に事故が多く、年に一度の最大の大潮に産卵する魚や、新月に伐った樹は腐りにくい等、月の引力が生命に与える影響は大きく、太陽フレアや、黒点・磁場を観察して地震予測される人や、黒点と経済の関わりの話もあります。太陽はじめ天体の動きが、心や健康に作用し、農産物の生産、社会活動にも影響を与え、激動の社会になるのかもしれません。北海道にある新得協働学舎代表の宮嶋望さんが、その実践から自然の秩序、メカニズムを読み解かれた「いのちが教えるメタサイエンス」を読み、自然と共に生きていた古代の人は、そんな天体の動きから未来を予測していたのでは、とも思うようになりました。近代科学と資本主義が手を携え発展してきましたが、経済も政治も様々に行き詰まり、福島原発事故は、便利・快適を求めてきた現代の象徴で、私たちに生き方の転換を迫っています。
宮嶋さんは、自然の法則に従い、微生物たちが気持ちよく働ける環境づくりをすることで、国内のみならず、世界のコンテストで金賞受賞という美味しいナチュラルチーズを作っておられます。電子が流れ、磁場が起こり、共鳴して、いのちは巡っている…。地形を読み、電子の流れを読み、天体の影響等々生命とエネルギーを巡る探索のすごさ。牛の重みで、沼のようになる放牧地に炭を埋めて乾燥させたり、炭・微生物・木造建築によるハエが来ず、臭わず、ほとんど殺菌の必要のない牛舎。一般に、すごい工事をしたり装置を導入して…、と考えがちなことを、自然の力を生かすことで実現され、ここまでできるのかと感動しました。鉄は電子を逃がし電位を下げるため病原性細菌が繁殖しやすく、それを抑える善玉菌は電位が下がると力を発揮できないといった話に、鉄筋に囲まれ、自然のリズムに反した暮らしをしている現代人が健康を保つ難しさも思いました。
本に感動し、講演会に伺いました。「頑張ってモノづくりをしたら必ず希望がわくので、東北の人達に頑張って欲しい」。30年間障碍のある方や不登校等の現代社会で生きづらい人達と、その持ち味を生かしながら、世界に通用するチーズ作りをされている歳月の重みを感じました。 「今、求められていることは、“いのちの源を科学技術という鉄釜からだして自然に返すことではないか”…自然のリズムに沿って生きる時、全てのエネルギーは循環し、人、牛、草木、微生物等地球上の生命は豊かな生を送ることができる」という文章に深く共感しました。
「いのちは、宇宙の意思から生み出され、地球の材料を使ってつくられたもの」とは、ある宇宙物理学者の言葉です。進化の過程、いのちの仕組みを知れば知るほど、私たちは自然の一部であり、連綿と続くいのちの進化に連なり、今という時点のバトンを渡されている存在なのだと思われます。
ダライ・ラマ法王が「21世紀は日本の出番」と言われたそうです。「その時代を迎える為には、やさしさや思いやり、誠実さや正直といった日本人のDNAに刻まれた心の豊かさにスイッチを入れる事」と村上和雄先生は書かれ、サティシュクマールさんは、「人の手で作られたものは、人の手で変えられる」と言われます。パンドラの箱を開けたような原発事故、底に残った希望は、自然と共に生きる道を模索して歩くよう背中を押しているようです。この時代に巡り合わせた意味を見つめ、これまでの歩みを否定することでなく、科学技術を活かし、自然のリズムで、いのちが喜ぶ生き方を探ることが次の時代を拓くことにつながるのではと思います。覚悟を持って、しなやかに変容させてゆきたいと願っています。
われわれの目をくらます光は、われわれにとっては暗闇である。
われわれが目覚める日だけが夜明けを迎えるのだ。
新たな夜明けが訪れようとしている。
「ソロー 森の生活より」
参考図書「いのちが語るメタサイエンス」宮嶋 望著 地湧社刊
「スイッチ」村上和雄著 サンマーク出版
51号「からだと対話する」
身体はなんとうまくできているのかと、知れば知るほど感嘆の思いに駆られます。今回のBeな人、平岩和子さんのお話をある勉強会で伺いました。顎(あご)関節のずれを治すことで、車椅子で来られた方が歩いて帰られ、パーキンソン氏病の方の歩みがスムーズになられる仕組みは、謎解きの面白さでした。私は、疲れがたまると腰に近い背骨がぽこっと出て痛くてたまらなくなります。ある時、試しにカムラックを噛み、顎をゆるめたところ、出ていた骨がすっと引っ込み、楽になったのに驚きました。骨を支える筋肉は全てつながりあい、顎関節は、頭と体を繋いでいて、直立する人類にとって最も重要な関節であり、カムラックは顎のずれを治すための道具だそうです。
首と肩の関係で思い出したのが、人が気づかずに続けている体のクセをほどき、からだを解き放つ、アレクサンダーテクニークの体験です。頭蓋骨は首の第一頸椎にそっと乗っているようなもので、その軽いつながりを意識するだけで固い首が、すっと伸び、軽々と後ろに廻りびっくりしました。身体は、顎がゆるむと、首が弛み、背骨が整うようになっており、骨を知ると筋肉が緩み、自由に動けて、内なるバランスをもっと感じることができるとのことに感動しました。
心とからだを分けて考えることはできず、思考や感情は、肉体の緊張や運動と直接結びついています。私は、身体は柔らかい方ですが開脚が苦手で不思議でした。が、ある時、いやだなぁと思うことがあると、足の内側筋肉を無意識に緊張させて我慢していることに気づきました。潜在意識は全てを覚えており、抑圧され、無意識に追いやられた記憶は、筋肉の緊張やコリのパターンとして身体に書き込まれるそうですが、気づくことで無意識の動作が減り、解放されてゆきます。
「背筋を伸ばしなさい」子供のころ、口を酸っぱくして言われたものです。自然治癒力を高める基本条件は、呼吸・食事・運動・心の状態・姿勢であり、姿勢はその基本を支える柱と言われます。脳卒中で倒れ、復帰された脳科学者―ジル・ボルト・テイラー博士が、大脳の実物を見せて話される番組で、右脳と左脳をつなぐ下部真ん中からぶら下がっている脊髄を見て、首や背骨、それを支える腰の大切さを実感しました。
日本語には背筋が伸びているとか、肚(はら)を据える等々身体に関わる言葉が多くあります。日本文化は肚の文化で、踊り、剣道、茶道、日々の暮らしも、腰を立て、正座し、腰をつくり、肚を重視してきました。たまたまテレビで観た玉三郎さんの日本舞踊に思わず見入ってしまいました。身体をそらし、ひねり、指先のその先にまで神経が行き届いているような見事な姿。腰が決まっているすごさを感じました。
「神経伝達物質は脳で10%、腸神経節で90%作られ、腹脳(腸)は幼児期に成長が止まって、感情を素直に出せないで育つと、みぞおちでブロックしてバリアを作り、感情が脳とお腹を行き来せず、病気で表現するようになる。身体は、いわば“思考・感情の立体写真”で、全身で考え、行動し、感じている。自分の身体は弱いと思うと、それに応じた物質が分泌されるので、気にし易い自分の心を修正することや、ゆらげる感受性を持つことが大切。頭より腸がえらい!」量子医学の伊東ドクターのお話です。「感情はみぞおちにある。意識の中心は頭にあり、無意識の中心は骨盤。みぞおちが柔らかいことが意識と無意識の統合の要点である」という野口整体の言葉が腑に落ちます。
いつも目的達成に目が向き、プロセスを軽んじ、前のめりで歩いているような現代社会ですが、野口整体、アレクサンダーテクニークにヨガ等々…、それぞれに身体に何がおこっているか気づき、緊張を解き、無意識だったことを意識化することの大切さを言われます。心を遣かって、心の癖に気づくのは難しいですが、身体を通して心の癖を知り、解放し、直観力を養い、健康を保つことができる有難さ。
宇宙にたった一つきり、過去も未来もない、今ここにしかない自分のからだの動きや変化に目を向けることが感受性を育み、自分の可能性を拓いていきます。
心も、身体も、脳も、主人は自分自身。からだの声に耳を澄まし、顎をゆるめ、背筋を伸ばし、しなやかに、いのちの根源を味わいたいものです。
参考図書
野口整体「気の心身一元論~心と体は一つ」金井省蒼著 静岡学術出版
52号「いのちの居場所」
福島の春はため息の出る美しさでした。山々の多様な緑、咲く花々、小さな棚田や広がる放牧地…。長い歳月に育まれたであろう風景の美しさに、人と自然が共に豊かに暮らすにはどうすれば良いか、自然をよく見て考え抜き、沢山の村々を救われた二宮尊徳さんの話がふと浮かびました。
今号のBeな人、飯舘村の麻里さん宅にも伺いました。初めて見るサンショウウオの卵。カエルの合唱、森に響くウグイスの声、丹精されていた花々…、いのちが輝いていました。毎年さぞ待ち焦がれられたであろう春を愛でられない村の方々の哀しみが、美しいだけに胸に迫りました。場の研究所の清水博先生が、「<いのち>の居場所がなければ生きものは生きていることはできても、生きていくことができない。このことが認知されていない為、失った人を孤立させ、時に自殺に追い込む」と、被災された方々の居場所を失った苦しみについて書かれています。麻里さんが、大切な森を出ていくことで心が壊れてしまう、と書いておられるのはそのことでしょう。
故渡辺俊明さんのギャラリー蓮笑庵に地域・職種・年代がさまざまなメンバーが集まり、“うふふプロジェクト”浄化実験の経緯・現状や、「愛・ふくしまひかり塾」への思い、福島の方々の忌憚のない声を伺いました。「心を浄化し、自然に喜ばれる心になり、天の理にかなったことをしたい」「除染は第一義でなく手段、いのちの循環が大切」「多様な感情、受け止め方を認め、否定せず、すぐ結論を出さず将来の日本に夢や希望がもてることをしてゆこう」「人は人を救えないと知った上で応援して欲しい、内からと外からの力が合わさることで何かが生まれる」「新しい思想・哲学・宗教が必要」等々、時を忘れての話しあいでした。俊明さんは日頃「詩人になりなさい」と言っておられたそうです。自然を愛する詩人の心を持って生きていくこと。野菜をつくることが、機械を作ることが目的でなく、それを通して詩人になるのが目的。『何をやっても詩人になる』という「ひかり塾」の理念に、目指す世界の確認・共感の時を持ちました。
様々な要因が重なりあって原発事故は起きました。原子力開発に関わった人には、広島・長崎で被爆された方が多く、苦しめられた核を平和利用できるということで携わられたそうです。どんな発明も技術も、最初は願いを持って取り組まれ、時代は進歩・発展してきたと思います。効率を追い、丁寧な仕事が減り、現場からベテランが姿を消し、それ以前は起きなかったような事故が多発するようになりました。長い時間をかけ積み重ねられたこと・ものを惜しげもなく捨ててきた結果が、今の現状なのではないでしょうか。
「原発さんには罪はない、長く働いてくれて有難う、という感謝といたわりの言葉が先ずあり、鎮まって下さいと祈るのが順番だろう」内田樹さんと中沢信一さんの対談にあった言葉に共感しました。量子の世界では実験にも意識が作用し、モノにも意識が伝わると言われます。生きているものは振動しており、内臓にも特定の周波数があり、その周波数で調子を整える治療法もあります。言葉や祈りのバイブレーションが放射能に働きかける事もあり得るのではないでしょうか。放射能は勿論大きな問題ですが、1950年代から土壌と米・麦のセシウム含有量を測定し続けているデータや、気象庁のデータを見ると、80年代位までかなり高い数値でした。核物質も化学物質も世界中にあふれ、海を、空を廻っています。
原発から自然エネルギーへの転換が言われますが、今の生き方、暮らし方を変えずエネルギーを転換しても、新たな問題が生まれることでしょう。バブル期から既に供給が需要を上回り経済は飽和状態でした。右肩上がりを続ける為、モデルチェンジで購買力をそそり、安価な労働力・消費地を海外に求め、仕事に就けない人の数は恐ろしい程です。経済成長でなく、成熟社会に向けた働き方、暮らし方を模索する時ではないでしょうか。
起こったことから何を学ぶか、それは何を伝えようとしているのか向き合う事で、いのちは深まります。
「私たちは地球という大きないのちの居場所でおきている生命現象であり、地球という居場所の一部として互いにつながりあった関係にある」清水先生の言葉です。長い歴史の中、いろいろなことに“いのち”は適応しつつ生きのびてきました。自然の一部という全体とのつながりの安堵感を取り戻し、いのちの適応力に信頼を寄せ、新たな文明を共に創造したいと願っています。
「小さなひとりひとりが、自分にできることを精一杯やっているとそれが自然に響き合って、いつの間にか大きな力になってゆく。自然とはそういうものなのではないでしょうか。 ケリーヨスト …グロッセ世津子さんブログより」
参考図書「コペルニクスの鏡」清水博著 平凡社刊
「日本の文脈」中沢信一・内田樹 角川書店刊
参考リンク
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」の感想 田口ランディさんブログ
「何をやっても詩人になる」だいずせんせいの持続性学入門
53号「原点を見つめる 」
子供の頃、「ここは○○さんの土地、あそこは…」と聞く度、自分で土を作った訳でもなく、掘り進めば地球の裏側に行くのに、どうして誰かのものと言えるのか不思議な気持ちがしたものでした。食物も人間ができることは僅かで、太陽と水と大地の恵みで育ち、食べたものが血肉となりエネルギーとなるのも、いのちのはたらきです。なんと多くを与えられ、生かされているのでしょうか。
今号のBeな人、長島龍人さんの「お金のいらない国」落語版を聞かせて頂きました。文字で読むよりリアリティがあり、落語を聞きながら信頼で成り立つ社会の心地よさに、こうであったら、どれほど生きやすいことかと思いました。何か事がある度、管理・規制が強まり、どんどん不寛容になる現代社会。いつの時代にも、いじめはありますが、どんどん過激になっています。本能に組み込まれているのでしょうか、時に自分の中にもやりかねない衝動を見ます。それを実行するか、踏みとどまるか、何が分けるのでしょう。大人の世界に形を変えたいじめが蔓延し、社会全体が閉塞感の中で、弱い人をいじめることは不正義であることや、魂・良心を大切にすることを教えられないこと、テレビ等にあふれる暴力シーンが拍車をかけているのでしょうか。
いじめが取り沙汰されると、上田市真田町の教育委員長だった大塚貢先生のお話を思い出します。中学校の校長時代、犯罪的な非行が絶え間ない荒れた学校を、食生活の乱れが大きな要因では、との気づきから米飯・野菜中心の給食に変え、花づくりを進め、授業を変える事等から劇的に変化。学力も全国平均を抜きんでる程になったそうです。塩分の多いスナック菓子、合成保存料・着色料、甘味料入りジュース、肉食中心といった食生活の乱れや偏りは、精神を安定させるため不可欠なカルシウムや、亜鉛等のミネラル不足になり、自己コントロールができず、感情が抑えきれなくなります。以前イギリスで、あるメーカーのポテトチップスを食べた子供達が暴力的になり問題になったこともあります。
人間の身体はミネラルで出来て、ミネラルで動いており、ノーベル賞受賞者リーナス・ボーリング博士はほとんどの病気はミネラル不足が原因と言われます。さらには化学物質の問題もあります。食品添加物は、化学物質の塊で神経伝達物質の化学構造と極めてよく似ているため、ごく微量でも、間違えて受け取られ脳の誤作動につながるそうです。そんな微妙なバランスで保たれている身体にもかかわらず、「沈黙の春」レイチェル・カーソンが「放射能をおそれるなら、何故農薬や殺虫剤等の化学物質を恐れないのか」と提言した頃より、はるかに悪化しています。
次々生み出され使用されるさまざまな化学物質。それでも、食材が確かであればできるだけ添加物等を取り込まない暮らしは可能です。が、除草剤耐性遺伝子や殺虫遺伝子を組み込まれた大豆・トウモロコシ・菜種が世界に広がっています。虫が死ぬ食べ物を人間が食べて安全とはとても思えませんが、日本の大豆は90%が輸入で、そのうち70%がアメリカからです。自家採取できず、毎年種を買い続けなければならないF1種で、食を確保することが難しくなるばかりです。食の問題ばかりでなく、子供達を消費者とみて、健やかな成長を害するようなモノもあふれています。江戸時代、日本を訪れた宣教師たちは、日本人の正直さに驚き、子供たちはみんなに愛され世界一愛らしいと書いたそうです。
いつの間にか、お金がまるで神のようになり、倫理観が薄れるばかりですが、もともといのちは、与えられることばかりで成り立っており、元来労働は、労働するに先立ち、既に贈与を受けていることに対する返礼だったそうです。山元加津子さんが、メルマガで紹介された新原先生の新著の抜粋です。「私たちの生命には細胞レベルから、“与える”という仕組みがプログラムされている」「どんな人も何かを与えることはできます。たとえそれが“ありがとう”というひと言だったとしても、それが誰かの希望となり、安らぎになるかもしれません(中略)自分を中傷したり、意地悪をする人たちにさえ、自分と同じ人間としての敬意をもつことができる。それが人間に与えられたいちばんの強さなのだと思います」
ノルウェーで起きた85名殺害されたテロ事件で、殺戮を免れた10代の少女の言葉です。「一人の男がこれほどの憎しみを見せたのなら、私たちはどれ程に人を愛せるか示しましょう」私たちは、心に天国も地獄も創れる存在です。食はいのちの源であり、お金は交換の道具、教育は心の種を育むもの…。あらゆることを原点に立ち返って見つめ直し、いのちが持つ仕組みいっぱいに生きられる社会を願っています。
参考図書「日本の文脈」内田樹・中沢信一著 角川書店刊
「生命は与えると強くなる」新原豊著 サンマーク出版
54号「一途に生きる」
「映画を見ない人生よりも見る人生の方が豊かです」― 今号のBeな人、森田惠子さん監督作品「小さな町のちいさな映画館」の大黒座の三代目館主の言葉さながら、映画に心ふるわされる事が続きました。森田さんの作品をあいち国際女性映画祭で観ました。全国で小さな映画館が消えている中、創業93年になる北海道浦河町の大黒座という映画館と、それを取り巻く映画好きな人達のドキュメンタリー映画に胸が熱くなりました。
館主の目にかなった個性的な映画を上映する大黒座は、一人のお客さんも入らない日もありますが、映画好きの人達がさまざまに応援されています。そして、その人たちも又、自分の生き方を貫いている人たちばかり。撹拌機も買えず、鶏の餌を手で一生懸命混ぜながら、芸術品のような卵を作っておられる桜井さんは、「…生きているだけで楽しい。お金は道具。あればあったで便利。なきゃぁないで暮らせばいい。それより自分の生きたいように生きる方がいい」。「シフォンケーキはこの卵でなければ…」と、言われるパン屋さん。登場される人達それぞれに自分らしく生きながら、互いに支え合っておられる姿に、古くて新しい未来の姿を感じました。
続いてやっと観る事ができた「カンタ!ティモール」。想像を絶する迫害をうけながら、笑顔と人を信じる心を失わず、2002年にインドネシアからの独立を果たした東ティモールの人々の喜び・苦しみを描いたドキュメンタリー映画でした。愛、美しさ、哀しさ、強さ、残虐さ、愚かさ…、全てが胸に迫りました。日本からインドネシアへの資金援助が軍備増強になっているので援助しないで欲しい、という言葉はショックでした。原発もですが、繁栄を享受しているすぐ近くで起こっていることに気付かない事が、どれほどあるのだろうかと胸がふさがる思いでした。にも関わらずの歌、笑顔…、言葉にならない想いがあふれ息苦しくなりました。
国民の3人に1人が殺され、家族の誰かを失いながら、報復せず、悲しいが怒りではないと言えるのは何故だろうと思いながら観ていて「人類はひとつの兄弟なのさ、父もひとり、母もひとり、大地の子ども 憎んじゃだめさ、叩いちゃだめ 戦争は過ちだ、大地が怒るよ」流れる歌の大きな意味に気付きました。大地とつながり、大きないのちを共に生きているという実感を持つことのすごさに…。
「魚の代理人としてここにきました」こう語り始められた水俣の緒方正人さんを、田口ランディさんが新著に書かれています。命の問題がお金に換算され、責任の意味や内容がシステム社会に飲み込まれるのを危惧し、チッソ患者認定申請を取り下げ、お金の価値観にとらわれない生き方を選ばれた緒方さん。「草や虫や動物が死ねば人間も生きていけない事に気づいていない。水俣病も原発も問題の根はつながっている。…国は二つあると思っている。システム社会、この制度国家日本と、生国(しょうこく)という魂のふるさととしての国。生き物として、生国を忘れてはいけない。」自分が不知火海や山々のひとつと気づかされ「自分の命の物語」に従い、コマーシャリズムに乗せられないで、自らの必要を自己決定する。「一抜けたという生き方」のキーワードは、一人という原点に立ち返る、人としてという原点に立ち返ることと語られます。
「平和は演説ではない、平和は暮らしそのものなのだ」東ティモールの男性の言葉が胸に刺さりました。私たちも暮しを失いつつあります。年間3万人以上の自殺が何年も続き、生き辛さを抱える人は増えるばかり。空気も、水も大地も食べものも手放しで安心できる状況になく、当たり前の暮らしを営むことがとても難しくなっています。
「残酷な競争で成り立つ消費主義社会で、共存共栄の議論ができるでしょうか。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。人は発展するために生まれたのでなく、幸せになる為にこの地球にきたのです。」ネットで評判になったリオ会議でのウルグアイのムヒカ大統領の演説に深く頷きました。
「日本は、漢字から仮名やカタカナを生みだしたように、ただ入ってきたものに丸ごと変えるのでなく、取り入れ、咀嚼し並行して二つを共に活かす文化だったのが、グローバルスタンダードという一つの大きな価値観に基づくシナリオで決めようとしすぎてきた」
松岡正剛さんの本にありました。本来の日本は一途で多様なのだそうです。なにもかも閉塞状態の社会で、抜け道がなさそうに見えますが、降りていく生き方であれ、一抜けたという生き方であれ、いきものとして、人としての原点に立ち、それぞれの命の物語に従って一途に、多様に生きることで、いのち本来のつながりあいを取り戻していけるのではないか、そこに未来を感じます。
参考図書「サンカーラ」田口ランディ著 新潮社刊
「侘び・数寄・余白」松岡正剛著 春秋社刊
55号「奇跡が奇跡でなくなる日に向かって」
昨年12月岡山県総社市で山元加津子さん&紙屋克子さんの講演会「奇跡が奇跡でなくなる日に向かって」が開催されました。山元さんのお友達、宮ぷーの重篤な脳幹出血からの回復は奇跡的な事と言われがちですが、たとえ植物状態であっても“誰もが思いを持っていて、回復する可能性があること”が当たり前になる世界をめざした「白雪姫プロジェクト」1000人集会は、お二人の講演と宮ぷーの映画「僕のうしろに道はできる」初上映に、各地からの参加者で立ち見が出るほどでした。
意識障害の方の看護の実践・研究に長年取り組んでこられた紙屋先生の事例を交えたお話は衝撃でした。意識障害で長く寝たきりで手足も拘縮しておられた方が、4~6週間の集中リハビリで、自分で食事ができ、笑ったり、歩けるようになられた事例や、10年意識がないとされていた女性が看護学校に通っておられるというお話もありました。
「未来に絶望しないで欲しい。どうなるか分からないことは希望があることでもあり、今の方法で変化がでなければ別の方法を考えれば良い…」どれほど多くの患者さんを絶望の淵から救ってこられたでしょう。「20年たっても回復します。赤ちゃんは何もないところからさまざまな機能を獲得してゆく。身体は覚えているから思い出せば良いこと。脳は3~4%しか使っていないのだから、筋肉の働きと、脳への刺激を組み合わせれば大丈夫。いのちはそんなにやわじゃない」お話しを伺いながら、歯の噛み合わせを正すことで、車椅子の方が歩いて帰られたとか、難病の方が治癒されてゆくという歯科医の平岩先生のお話も思い出し、身体の仕組み・働きのすごさを思うと同時に、こういった事がほとんど知られていないことが惜しくてなりませんでした。
植物状態とされていて回復された方の多くが、倒れて間もない全く意識が無いとみなされている時期に意識が戻っており、それを伝えられないことに絶望してゆかれたそうです。もし、自分や、親しい人がそうだとしたら…、「知っている人が伝えなくちゃいけない、知っている人には責任がある」山元さんの熱い思いが胸に迫ります。常識的な思い込みで、いのちの可能性を閉ざしてはいけないと強く思いました。
目を開いていなくてはいけないことは沢山あります。今号のBeな人、広田奈津子さん監督作品「カンタ!ティモール」は、心を揺さぶられることばかりでした。人口の3分の1失う程の弾圧にあいながら『戦争を終わらせ、平和を創る信念だけは奪われないよう』殺されても殺さず、捕えたインドネシア軍の兵士に自分たちの願いを話し、負傷兵は手当てして解放する繰り返しの結果、国際世論の高まりと共に、インドネシア国内や兵士にも支援者が広がり、奇跡と言われた独立が果たされた事。民衆が力を増す、と軍に嫌われた大地・先祖との繋がりを紡ぐ踊り「テベ」、子供たちの笑顔・歌、毅然とした人々…、大きないのちを共に生きている実感はこれほどの力を持つものかと圧倒されました。
同じ頃、テレビでバルト三国がソ連から独立した経緯を知りました。文化も言語も奪われた小国が、独立の思い・民族の誇りを音楽にかけた「歌と踊りの祭典」。1988年には3万人の歌手がステージで歌い、翌年、民族の違いを超えて三国の国民200万人が手をつないだ「人間の鎖」600㎞で、三ヶ国の国境を囲んで歌い続けたことが継起となり1991年独立。人類史上初めて歌声が、民族を独立に導いたそうです。観ながら、「カンタ!ティモール」に流れる歌が重なり胸が熱くなりました。
「今、僕らは満腹で笑っていられる。でも過ちを犯せば、子供たちは水・食料・全てを巡って殺し合うはめになる。治すんだ。この世界を治すんだよ」東ティモールの男性の言葉が胸に響いています。「人間は他人の苦しみに、又世界の一切の動きにも苦しむ。苦しむ能力の拡大とともに、人間の進化向上はある(野生の哲学)」さまざまな困難な状況に想いを寄せる事は力を持っている。マザーテレサが言われるように無関心にならないことがとても大切なこと。大きくなければ、強くなければ、競争に勝たなければ…、いろいろな思い込みで見失っていることがどれほどあるでしょう。
「人は宇宙の底力としっかりつながって存在しているから、その底力を味方にしてあきらめず回復をめざせば、人は本来のその人らしい姿に戻っていこうとすると思う」山元さんのこの言葉は、環境にも、社会にも当てはまること。芥子粒のような小さな種が、花を咲かせ実をつけ、小さな蝶や小鳥が間違いなく渡りをするように、いのちの奥底にはすべての情報があります。知識や感情で曇らせることなく、宇宙とつながった自分の内なる声に耳を澄ませ、内なる自然に忠実に知恵を深め、育てたい。なりたい未来に向かってあきらめずに進めば、奇跡が奇跡でなくなる日が来ることを信じて…。
参考図書 「僕のうしろに道はできる」山元加津子編著・三五館刊
「野口晴哉の生命宇宙―野生の哲学」永沢 哲著 青土社刊
*2009年 神屋克子先生インタビュー
56号「内なるリズムで暮す」
ある日、真冬のキンとした冷気でなく、鼻の奥をくすぐるほのかな甘さのようなものに冬の終わりが近いことを感じさせられる時があります。光の色が変わるにつれ春の訪れの予感に喜びが湧いてきます。
春の小鳥のさえずりが植物の成長を促すと言われ、小鳥のさえずりのテープを流すと植物の気孔が開き、栄養吸収が高まることを活かして作物を大きく美味しく育てる方法があると今号のBeな人、リュックさんに伺いました。何故こんなにも春はいのちを湧きたたせるのでしょう?そんな疑問が解剖学の三木先生の著書で解けました。「“こころ”とは内蔵された宇宙のリズムである」という言葉に心が躍り、ページを繰るのがもどかしいほどでした。
春に心を揺さぶられるのは、宇宙リズムの実感!いきものは大宇宙のメカニズムが内臓の奥深くに宿され、それと共振する小宇宙の波が内臓波動―こころの本能で、人間は、このうねりを時の移ろいとして実感できるそうです。季節感は、日本人の心の象徴で、四季折節のものに内臓波動の“こころ”が共鳴―うねる「はらわた」の実感が、大脳皮質にこだま(大脳皮質の細胞が放電)し、肚の底からしみじみ感じられる…。春情、実りの秋等の季節感を感じるのは、内蔵された宇宙リズムを感じているということに嬉しくなります。
全ての生物は、太陽系の諸周期と歩調を合わせ、食(成長)と、性(種族保存)を交互に移動して行っており、植物は光合成できるので移動の必要が無く、食と性のリズムが宇宙リズムと一致するようにできていて、春の芽吹き、夏の繁茂、実りの秋へと個体維持・種族保存の営みを繰り返しているそうです。樹を見て人生や宇宙の摂理を感じるのは、その所以なのでしょうか。リュックさんが伝えようとされている、自然の神秘、驚きを通して、感性を広げ、自分たちで考え、感じる事を取り戻す事の大切さが、それこそ腑に落ちました。
身体のメカニズムも驚くばかりです。51号のBeな人平岩和子さんは、噛み合わせが身体に及ぼす力を伝えておられますが、身内が治療を受けて変わってゆく様を目のあたりにして体の仕組み、つながりに感動を覚えています。2歳の時池に落ちて頸椎がずれ肩こりがひどく首振り人形と言われるほどだったそうです。けれど、マウスピースで、口腔内のバランスを取るうち、傾いでいた首がほぼ真っ直ぐになってきて、背骨が整うにつれ呼吸が楽になり、頭蓋骨も閉まって少し小顔になってきました。60歳を過ぎても、これほど身体が変わることは驚きでした。
舌を大きく前に出したり、ひっこめたりする舌出しで、脱肛や、自律神経失調等が改善する健康法があります。それもその筈、動物の起源は腔腸動物で、腸管の入り口が頭で、出口が肛門になり、舌から食道、肛門まではひとつながりで、舌は脳神経の主要幹線道路であり、下位自律神経の始発ターミナルなので諸症状が改善されることは生理学で説明がつくそうです。しかも舌は毒物と栄養物を選択する触覚に相当する場所とのこと。身体ってスゴイ! 一つ一つが感動です。
微生物の平井先生が講演でよく「うんこ製造機の皆さん」と言われ、腸と微生物の大切さを話されますが、腸が心身の健康に大きな影響があるのは、そこがいのちの根元だから。日本語は“はら”に関わる言葉が沢山ありますが、肚の底からの実感は、大宇宙と共振した肚の声―つまりはこころの声を聴いていることである、という一文で思い出したのは映画「1/4の奇跡」の監督入江富美子さんのお話です。
大晦日の夜、溢れる感情を感じ切った時、お腹の底からぐわ~と、「ありがとう~」という言葉が全身にあふれてきたそうです。まさに大宇宙と共振した肚の声なのでしょう。そして、「宇宙に感謝の量を増やす映画をつくる!」という思いが、まさに天からやってきたと感じられたそうです。
“思”という象形文字は、「あたま」が「こころ」の声に耳を傾けている図だそうです。昔の人の実感のなんとすごいことでしょう!頭が先立ってはいけないのです。肚の声つまりは、宇宙リズムの実感に従うことが、自分という自然を生きること。
「自然の息遣いに沿って呼吸し、季節のリズムに従うことを学び、刻一刻と自然を観察してあらゆる状況において自分を喜ばせることが、若々しく幸せに暮らすコツ」植物治療家で、世界の著名人を治療されたモーリス・メセゲさんの本にありました。
「ゆっくり歩むこと。歩みが成り行きに翻弄されるのでなく、一人一人が自ら感じる内なるリズムによって刻まれることを願う」というメセゲさんの言葉が、ますます輝きを増しています。
参考図書「自然が正しい」モーリス・メセゲ著 グロッセ世津子訳 地湧社刊
「内臓とこころ」三木成夫著 河出文庫
57号「いのちの可能性」
「わぁ~い、できた!」「あ…、固まらない」賑やかな声が響きました。今号のBeな人、みもりさんにお願いした会社でのアロマクリーム作りは、柔らかな香りと笑い声があふれるひとときでした。ひまわりのような笑顔のみもりさんの説明に、少し緊張気味だった人達もあっという間に引き込まれワイワイガヤガヤ笑いの渦でした。「松の力」とアロマの相性が良いと、長くお付き合い頂いています。ある時、天に帰られたお子様のことを伺い、輝く笑顔の行動力の源に触れさせて頂きました。
みもりさんが暗闇から抜け出すきっかけとなったアロマオイルは、交感神経と副交感神経のバランスを取り、免疫力を上げると言われます。視覚・聴覚は大脳新皮質に届くので情報過多の現代は、無意識が司る免疫系や内分泌系が弱りがちですが、香りは、感情や記憶を司る大脳辺縁系に届き、無意識を刺激、情動を引き起こし、意識と無意識をつないで心身に大きな影響を及ぼすそうです。ニオイでふいに記憶が蘇るはずです。
「鼻の奥に臭いを感受する数百から数千のレセプターがあり、その裏から出た神経細胞が束になって脳に入り、脳内にある信号を読み取る認識機構から神経細胞が無数に体の抹消に到達して、美味しいニオイがきたら近づき、いやなニオイから遠ざかるといった様々な反応をしており、臭覚を取り出そうとしても結局身体全体をもってこないと、どこかに移すことはできない」――“生命から部分は取り出せない”と題された福岡伸一さんの一文です。なんと精妙な!体の仕組みは知れば知るほど驚嘆します。
1998年シドニーでネイチャーケアカレッジを見学した時に驚きました。アロマ、ホメオパシー、鍼灸等々、さまざまなコースがあり卒業後は国家ライセンスが入手できると伺い、思わず認められた理由を質問したところ、西洋医療に比べ代替医療の方が医療ミスも少なく、支払い額の違いから保険会社が目をつけたそうです。アメリカでは1992年に国立衛生研究所に「代替医療部」が発足し、93年に代替医療費が西洋医療費を上回り、それ以降がん死亡率が毎年減少しているそうです。日本は、自然にも生命を感じ、生薬・食養・手当の伝統が沢山あるにも関わらずなかなか認められません。
脳幹出血で3時間の命と宣告された宮田さんが、気持ちを伝え、車イスに乗られる迄の日々を追った映画「僕のうしろに道はできる」。奇跡の復活と言われますが、それを一人だけの奇跡とせず当たり前の世界にしたいという願いにあふれています。何年も意識障害だった方が食事をされ、笑い、歩くことを目指す紙屋先生の介護メソッド。重い障がいで言葉が無いと思われていた方から引き出す方法を見つけられた柴田先生は、障害に関する常識が根本から問い直されていると言われます。時にリハビリをいやがる宮ぷーに、それでもやるのだ!と迫るかっこちゃん(山元加津子さん)に思わず笑ってしまいます。つながりあい、支え合って生きていること、いのちは常識をはるかに超えていることを実感する映画です。
「信じてぼくの言葉 重い障害の少年が伝えたかったこと」朝日新聞に掲載された臼田輝さん(1歳誕生日直前の事故で寝たきり。16歳で帰天)の記事に釘付けになりました。柴田先生と出会い、書かれた研ぎ澄まされた文章の数々。自分と同じように障害が重いために言葉を理解できないと考えられている人々も、実は言葉の世界をもっていると社会に伝えたいと願い続けておられたそうです。
のぞめばかならず とびらはひらかれるということが しょうめいされました。 うしなわれたかこは もどってはきませんが のぞみにあふれたみらいがあることが すばらしいです。くなん それはきぼうへのすいろです。けっしてあきらめてはいけないということを おしえてくれます。(抜粋)
「人間の深い意識の底には、全てを理解し、知り尽くすことのできる叡智が眠っている。もともとすべて自己の内部にある」野口晴哉さんの文章を思い出しました。つい頭でっかちになりがちで、直観も鈍り、叡智の湧く脳幹とつながることが難しく思われますが、しなやかに、計り知れない“いのち”の可能性に心を開いていたいと思います。
【心身の深い連環を尊重し、生命に即して生きる静かな変容こそ、人類に未来の希望をもたらす・・・野口晴哉 】
参考図書: 「野生の哲学~野口晴哉の生命宇宙」永沢哲著 青土社
「生命と食」福岡伸一著 岩波ブックレット
58号「心を寄せる」
森の一部のように静かにそこにある建物、お庭、石・・・、蓮笑庵の美しさにため息がでました。いのちあるものが自然の中で、互いに交流でき、心を寄せあえる美しい場を願って渡辺俊明さんが創られたアトリエは、何もかも美にあふれ俊明さんの息吹がそこここに感じられ、逝かれた後も精魂こめ、愛した場は、その人の魂が宿り続けるものと感じました。
「いい思い出がいい大人を作る」と語られ、生活すべてが生き方の全てで、何をしても自然を愛する詩人の心を持って生きることの大切さを言われていたそうです。自然の豊かさ・美しさ、家・工芸品等の手技の素晴らしさ、居心地の良さに、「全てのものはエネルギーを発していて、丁寧に作られたものに囲まれていれば元気になる」量子医学のドクターから聞いた話を思いだしました。
経済発展一辺倒で、お金や物の多いことを豊かさとする消費社会となり、未だ原発事故解決の道筋が見えないにもかかわらず、再稼働や、輸出が取り沙汰されます。未来へのあまりのつけの多さに気持ちが重くなりますが、「I AM」というビデオに勇気づけられました。大きな事故から価値観が変わった監督が、人間が自然と離れ、経済というモンスターに振り回されている社会を変えてゆくには、どうすれば良いか?何ができるか、という問いを持ち、科学者、歴史学者、宗教者達を訪ねた映画でした。
鳥や魚の群れが一瞬で方向転換する姿は感動的ですが、アカシカの群れが水場に行くタイミングを調べた実験が興味深かったです。早すぎると何頭か飲み足りず、遅すぎると脱水する仲間が出、移動速度によりライオンに襲われる危険があって、どこに、いつ行くか決めるのは大きな問題ですが、草を食んでいる何頭かが、どこかの水場を見はじめ、群れの過半数がそこを見た時に移動を開始しボスが残されることもあるとか…。鳥や魚等も同じだそうです。いのちには民主主義が組み込まれ、共感は人間の一番の本能で、助け合う人々を見るとエンドルフィンを分泌し、他人の苦しみに共感するミラーニューロンという自他を区別しない脳内物質があって互いを尊重し、助け合うように生まれているそうです。
感情がモノに働きかける実験もありました。ヨーグルトをウソ発見機のような装置の電極とつないだ横で、何かを思うと、その人は装置ともヨーグルトとも、つながっていないのにヨーグルトの微生物が反応して針が振れます。思考・感情がエネルギー場を作り、他の生体がそのエネルギーに同調するとのこと。微生物ともつながれるのです。あらゆるものがつながりあい、互いに影響を与えあっていることが腑に落ちる実験もありました。
異口同音に語られていたのが、小さな行いを続けることの力です。「物事が変化するのは、気にかけるから。皆が問題を気にかけ、日々小さな行いを続けると、その輪が広がり、やがて大きな運動になる。アパルヘイト撤廃もそうです」と語るツツ神父。
「戦争は本能に基づく人間の性(さが)ではない」、「敵すらを愛するということは、世界の諸問題を解く鍵」といった言葉に、東ティモールのドキュメンタリー映画「カンタ!ティモール」を思いました。国民の3人に一人が殺されても報復せず、捕えた兵士に自分達の願いを語っては解放し続け、奇跡と言われた独立を果たした人々を支える、人は大地の子であり大きないのちを共に生きているという信の底知れない力。
「たとえ植物状態の人であっても、誰もが思いを持っていて回復する可能性があることが当たり前の世界にしたい」と願った山元加津子さんの“白雪姫プロジェクト”。映画「僕のうしろに道はできる」や講演に触発され、意識がないとあきらめていた人とのコミュニケーションを取り戻された方が増えています。
多くの犠牲者が出た1959年の伊勢湾台風で壊滅状態になった地域で、住民308人が出資しあい誕生した名古屋南医療生協は、今や会員6万人を超えますが「みんなちがって みんないい~いのちかがやくまちづくり」をスローガンに活動されています。資金・智恵を出し合い完成した総合病院「南生協病院」を、サティシュ・クマールさんは、ここにコモンズの見本があると言われました。ドキュメンタリー映画「だんらんにっぽん」は、まさに小さな力を集めた大きな希望の物語でした。
心を寄せること、足元の小さな一歩が、願う世界につながる…。いのちはつながりあい、人の思いは地球にさえ変化を及ぼす――古来言われてきた事が、科学で証明される時代になってきました。
「自分が誰かに語りかける言葉に影響力があることに気づいていない…あなたや周りの人が何もしなければ物事は変わらない デズモンド・ツツ」
参考図書 DVD「I AM」トム・シャドヤック監督
【IAM ストーリー】
事故に遭遇して体の一部が麻痺してしまった映画監督のトム・シャドヤック。時間をかけてリハビリをし復帰するが、その経験がシャドヤックに人生に対するまったく異なる価値観をもたらした。家を売却し、モービルハウスに住むようになったシャドヤックは科学・哲学・信仰の分野における優れた人々と議論を交わしていく。生物学者で環境活動家のデヴィッド・スズキ氏、生理心理学やストレスについての研究を行っているハートマス財団の研究主任ロリン・マクラティ氏、1984年にノーベル平和賞を受賞した南アフリカのデスモンド・ツツ元大主教など、各分野の影響力のある人物たちと"戦争や貧困、環境問題などの根底にある現代社会の矛盾を掘り下げながら世の中や人間の真理に迫るドキュメンタリー"。
59号「あるべきようは」
「残念ながら300年祭はできませんが、子孫が400年祭を行ってくれると思います」原発事故の年の年8月、今号のBeな人、仁井田穏彦さんに初めてお目にかかった折に伺った言葉に衝撃を受けました。健康に良いお酒を造り続けてこられた仁井田本家さんは、水源を守り、自然栽培でお米をつくり、自社田の自然米が有機JAS認定を受け、柿渋が塗りこまれた美しい酒蔵も有機食品加工場としてJAS認定を受けられています。18代仁井田さん自身が杜氏となり、全員が酒造りのプロ集団を目指す等、良いお酒造りの為さまざまな取り組みをされ2011年から全てのお酒を自然米100%・天然水100%の純米酒だけにされたとのことに、原発事故がどれほどの重さなのか想像に余りあります。そんな中、自分の為すべきことをしつつ子孫に思いを託されることのすごさ。
今回のことだけでなく、長歳月の間には大変なことが多々おありだったと思いますが淡々とされておいでなので、「酒蔵は仁井田家だけのものではなく、お預かりして守らせて頂いている」という代々受け継がれてきた思いの他に、家訓がおありでは、と伺ったところ「約束を守る」とのことでした。「お客様との約束を守る、会社との約束を守る、自分との約束を守る」― 簡単な言葉ですが、実行し続けるには不屈の精神が要ります。
日本は世界に冠たる老舗の多い国で、世界に7000あると言われる200年企業のうち、半分近くが日本にあるそうです。日本人の祖先の智恵を伝えておられる辻川牧子さんから老舗の特長を伺いました。真面目で、欲を昇華させる哲学を持ち、謙虚で、淡々と当たり前のことを続け、お墓参り等で先祖供養を伝承してゆく智恵があるとのことでした。
「16代は水源を確保し、17代は蔵の宝物“金寶自然酒”を誕生させた。18代の自分は元気な田んぼを残したい…」そんな仁井田さんのお話に、ご先祖様を身近に感じることは、生きるものさしを長くし、自分もいづれ先祖になり子孫を守るという、繋がってゆくことへの信の強さになるのではと思いました。
倒産寸前の企業支援をされている天明茂先生は、家系図は世界で唯一の自分の為の教科書である、と家系図作りを勧められます。人生の経糸は、親・祖先から受け継いだ良きものを子孫へ継承していく家系であり、横糸は自分の魂を磨くことと伺いました。4代位の家系図は戸籍やお寺の過去帳を調べれば作成でき、それを見ると自分の命がどう与えられたか納得でき、先祖の徳・不徳、悩み・苦しみも思いやることができ、遠くたどればいのちの元であるサムシンググレートにつながる配線ができ、天に応援されると言われます。
「ご先祖様が日本人にとっての神で、過去が分かると、現在が広くなり、自分のこと、目の前のことだけでなく未来も広くなる」、ご先祖様という感覚を取り戻すことの大切さが松岡正剛さんの著書にありました。仁井田さんは「日本の田んぼを守る酒蔵」を目指すとともに、お仲間と「山が豊かで、きれいな川が流れ、元気な田畑が広がり、たくさんの生き物がいて、良い米や野菜がとれ、人が集う」地域を誇りに感じる真の田舎にしようともされています。原発事故以降、それまでの自然養鶏を止め、土本来の力を取り戻そうと自然農を広げておられる“けるぷ農場”の佐藤喜一さんは、友人であり同志です。9月、仁井田本家さん・けるぷ農場さん・蓮笑庵さんを廻り、自然と共に生きる道を追求されておいでの皆様の姿勢・丁寧な暮しの素晴らしさに、明恵上人の「あるべきようは」と言う言葉が思い出されました。
『日々の「もの」とのかかわりは、すなわち「こころ」のありようにつながるのであり、それらをおろそかにせずになし切ることに、「あるべきやうわ」の生き方があると思われる。そこには、強い意志の力が必要であり、単純に「あるがままに」というのとは異なるものがあることを知るべきである。(河合隼雄 明恵夢を生きる)』時により事により、その時その場において「あるべきやうは何か」という問いかけを行い、その答えを生きようとすることの大切さを説かれています。
目まぐるしい現代は、目の前のことに対応することで手一杯になりがちですが、変わるもの、変わらないもの、変えられるもの、変えられないものを見つめ、地球人としての“あるべきよう”も問いつつ生きてゆきたいと思います。
「予約された結果を思ふのは卑しい。正しい原因を生きる事、それのみが浄い」高村光太郎の言葉が胸にしみます。
参考図書「明恵夢を生きる」河合隼雄著 講談社
「日本力」松岡正剛・エバレット・ブラウン著 パルコ出版
60号「からだの声を聴く」
昨年11月、岡山で山元加津子さんと今号のBeな人柴田保之さん、それに意識障害の患者さんの看護実践・研究を長年続けておられる紙屋克子さんが一堂に会す講演会が開催されました。三人揃われたことで、山元加津子さんが“白雪姫プロジェクト”で伝えようとされていることがより鮮明になりました。
映画「僕のうしろに道はできる」や、ブログで、柴田先生が重い障害の方たちの思いを引きだされる様子に感動しつつ、どうされているのか不思議でした。前夜の交流会で、たまたま目の前にこられた先生がADHDの男の子の手を取り、気持ちを伝え始められました。「僕、話していいの?これは魔法?」ビックリした顔で先生を見つめていた男の子の表情が、どんどんやわらぎ「こんなに分かってくれる先生はじめて。学校では僕のことを障害児と思う先生と、普通と思う先生がいるけど僕は障害児なんて思っていない。お母さん、大丈夫僕はしゃべれるから」といった会話の後、晴れやかな笑顔で席を離れ、お母さんは頭が真っ白と言いながら涙ぐんでおられました。
映画に登場されている埼玉のマー君は今22歳。高校一年生当時、サッカー練習中の熱中症から遷延性意識障害になり、仮に助かってもお母様のことも分からないだろうと言われたそうです。新幹線に乗るため普通タイプの車イスに挑戦してお母様と二人で来られ、講演会のステージ上で柴田先生の通訳で話されました。
その時のメモの一部です。「意識が戻ったのは1~2週間後だけど気づいてもらえず、臓器移植されかねないかもと恐怖におそわれた。暗闇だったけれど母が気付き話しかけてくれた。他の人には気のせいと言われ分かってもらうことはなかったけれど、紙屋先生の病院では、みんなに「お母さんなら分かるのね」と言われ母も楽になったそうです。紙屋先生の所へ行ったときは小躍りしたい気分でした。
柴田先生は母にではなく、僕に話しかけてきてパソコンを出したので不思議な人だと思いました。プロか、変な人と思ったが、すごいスピードで僕の言葉をパソコンで打ち始め驚きました。」柴田先生の口を通して語られる言葉に圧倒されました。「こういうことは、信じてもらえないから、自分が前に出て伝えたい」と言っておられました。実際を目のあたりにして深く心が揺さぶられました。
柴田先生の方法で思いを伝えられるようになった方の文章は、親への感謝、自然の事、祈り等々研ぎ澄まされた文章が綴られていて、こんな深い世界をどのように育くまれたのか疑問符で一杯になりましたが、キネシオロジーを思い出しました。身体に、その人の中にある答えを聴く方法です。その人に合うものや、正しい答えだと筋肉に力が入り、合わないもの、嫌いな言葉、間違っている答えだと力が抜けます。体験して身体はどんなことも知っているし、答えは自分の中にあることを実感しました。
「人間の深い意識の底には、全てを理解し、知り尽くすことのできる叡智が眠っている。もともとすべて自己の内部にある」とは野口整体の野口晴哉さんの言葉です。「人はそもそも『身体で感じ、身体で考える存在』で、言葉は口に出して発したり、耳に聞く遥か手前のところで、認識・思考・感情そのものの道具として心の中で壮大精緻に働いている」高岡英夫さんの本で見つけた一文です。第二の脳と言われる腸で、神経伝達物質の90%が作られ、皮膚でも神経伝達物質が作られ、脳にも匹敵する知られざる思考回路ともいわれます。私たちは、思考・言葉に依存しすぎ、身体の智慧を見失っているのではないかと思えます。
「欲や競争心が全然ないと結局何があるかというと、愛情、愛。人間の本質って、いろいろな欲をとってみると愛なんだってことを翔子に教えてもらったのです、純粋に魂が育てられたわけです。」ダウン症の書家、金澤翔子さんの事を書かれた言葉に打たれました。
植物の種が、花になり、実になる情報すべてを持っているように、人間も生まれながらに完成形なのでしょう。ある意味では、現代人の多くも閉じ込め症候群に陥っているかもしれません。心に蓋をして、役割を演じ、廻りにあわせているうちに、ほんとの自分の気持ちに気づけなくなり、魂の声が聴こえなくなる気がします。こころの奥深くに眠る深い叡智は、からだが送ってくれる信号に耳を澄ますことで、扉を開いてくれるようです。
参考図書「最重度の障害児たちが語りはじめるとき」中村尚樹著 草思社刊
「天使の正体」金澤泰子著 かまくら春秋社刊
「意識のかたち」高岡英夫著 講談社刊
61号「センス・オブ・ワンダー」
春の訪れと共に虫たちも活動開始します。今号のBeな人、船橋さんは、自然のリズム、いのちの使命など沢山のことを教えてくれるミツバチに魅了されておられますが、エコロジーの巨匠サティシュ・クマールさんのお母様は、いつも自然が先生であると言われ「人間はミツバチから学びなさい。少しづつ自然から頂くことを、そしてミツバチのように何か自然に返しなさい」と話されたそうです。
小さなミツバチと私たちが大きな関わりがあると想えないかもしれませんが、わたしたちが口にする食糧の三分の一は植物に依存し、ミツバチは、これら植物の80%の受粉に関わっていると言われ、全てを人手でするのは途方もないことだそうです。ミツバチたちの受粉により野菜、果実,穀物が実りますが、2008年には北半球のミツバチが3分の1程になったと言われます。日本でも全国各地でCCD(蜂群崩壊症候群)と呼ばれる大量死や大量失踪が相次いでいます。携帯電話等の電磁界が帰巣能力を減少させているのでは、とかウィルスのためではないか等々諸説ありますが、一番問題視されているのはネオニコチノイド系の農薬。水溶性で浸透性があり神経に作用するため巣に帰れなくなるのではないかと推測され、人への影響も懸念されています。
欧州ではリスク回避できないとネオニコチノイド系農薬は使用禁止となりましたが、日本は規制せず、残留基準も欧米の2~100倍ほど緩いですが、なお引き上げの方向にあるそうです。それでなくても日本は世界に冠たる農薬使用国で、先進国第一位、中国・韓国と世界一を競う程です。農薬だけでなく、添加物、合成洗剤、香料等々、何種類もの化学物質に囲まれていますが、NHK「人体ミクロの大冒険」という番組で細胞やホルモンの働きを観て、体の精妙な仕組みに驚嘆すると同時に、化学物質が作用しないことの方が不思議に思えました。人間の細胞に直接影響ないとされる腐敗を防止する、ごくありふれたソルビン酸について「雑菌を制圧するなら腸内細菌も制圧するのではないか。安全とされている添加物でも長期的に摂取し続けて生じる問題、複合的作用については調べられていない。数日間の腐りづらさと、とりあえずの安全性を求め、時間を忘れている」福岡伸一さんの本にありました。便利・快適・効率を追い、見失っているものがいろいろあります。
この数年、ムクドリが会社の屋根両側のひさし内側にそれぞれ巣を作っています。今年もにぎやかな声が聞こえ始めた矢先、三階の屋根まで枝を広げていた、すぐ横の桑の木が根こそぎ伐られました。伐採された枝の中に古い巣の名残がありました。鳥の母さんはなんと賢いこと。雨に濡れず襲われる心配もなく、若葉の頃から、毛虫、実りの時期まで食べ物に事欠きません。実生でいつの間にか大きく育った桑の木は、木陰を作り、ポタポタと落ちるほどつけた実を摘んでジャムを作り、からんだ葛の花の甘い香りを楽しんだりと沢山の思い出をくれました。木が消えると同時に殺風景になり、地面は乾き草の絨毯が消え、いつもやってくるノラ猫もうろうろしていました。
いちじくや、枇杷の実、つくしを楽しんだ空き地が会社の廻りから消え、最後の砦のような桑の木を失った喪失感。それでも、少し経つと、以前の姿が思い浮かばなくなるでしょう。家が壊され駐車場等に変わっても、瞬く間に前が何だったか忘れてしまいます。工事の邪魔だから伐られた1本の木と共に消えた経済価値で量れないことの多さ。あちらこちらでこうして自然がやせ細り、川が汚れても、摘んで食せる野草が消えても当たり前になってゆくのでしょう。「自然を回復しようにも過去の記憶がなければ一体何をもとにすればいいのでしょう~」デヴィッド・スズキさんの一文です。
小さな取るに足りないと思われがちなミツバチが果たす大きな役割。木も微生物たちも大切ないのちの仲間、それなしに生きられません。エコール・グロッセの講座でフィボナッチ数列・黄金率の話しを伺い、シンプルで、秩序立ち、美にあふれたいのちの仕組みに感動しました。「私たちが生物圏に与えてきた被害を修復し、住みにくくしてしまった世界を改善するために、子ども心に抱いたセンス・オブ・ワンダーと畏敬の念が今ほど必要な時はない」とデヴィッド・スズキさんが書かれていますが、ほんのすぐそばに、私たちの体の中にも驚きが満ちています。目を向けること、耳を澄ますこと、手をかけることで、見つけませんか、いのちの不思議の世界。
参考図書:「いのちの中にある地球」デヴィッド・スズキ著 NHK出版
「生命と食」福岡伸一著 岩波ブックレット
62号「願いを生きる」
今回のBeな人、相田さんのショールームに伺いました。しなやかなガーゼショール、Tシャツ、下着、タオル等々開発から15年の証のような品々と、今年の新作タオルケットも並んでいました。二重ガーゼのショールは、とても気持ちがよい品ですが、1日30mしか織れないと伺いため息がでました。工場生産品ではありますが職人仕事のようです。
抗菌力の高い竹繊維は人類共有の財産との思いでものづくりされている相田さんは、ひとたび理不尽な場面に遭遇すると相手が誰であろうと信念に従って立ち向い、思いが形になったものが本物の商品で、そうでないとお金儲けの道具になると言われ、世界一品質の高い竹布を創り続け、紛争地や被災地等世界の医療現場に竹ガーゼを届けたいとのことに、不惜身命という言葉が浮かびました。
研修旅行で北海道に、ロケット開発をされている植松電機さんや、障害のある人たちが世界一のチーズ作りをされている共働学舎さんを訪ねました。
植松勉さんは、生まれた時から諦め方を知っている人はなく、「どうせ無理!」と言われて夢を持たなくなっている。できる理由を考える人が世界を前進させると言われます。人口急減少の時代、ほぼすべての産業が衰退産業になりプラス成長はあり得ないけれど、日本を救うのは日本人の能力向上と言われ、住居費1/10、食費1/2、教育費0になれば、生き方が変わるとの夢を持ち、社会の問題を解決する研究開発しながら学ぶシステム、さまざまな社会開発実験をするアークプロジェクトを進めておられます。以前、構想を伺い進展を楽しみにしていた現場に立つことができ、世界に3台しかない無重力装置や、ロケットエンジンの燃焼実験、研修棟等を見学することができました。東日本大震災の影響で大幅に遅れたそうですが、着実に進められ、高校生の皆さんが熱心に研修されていました。
炭・微生物・光など自然の力を活かした場で、障害や不登校など居場所のなかった人たちとチーズ作りをされている共働学舎の宮嶋望さんは「誰もが必要だと心から認識される社会にするために革命を行おうとしている。個人個人の心の中に意識転換が起こり、その連帯で社会の意識が変わる」と著書に書かれ、経済の根本は「世の中の必要」で、今の資本主義の間違いは前提を「人間の欲望」に置き、お金勘定に走っている。もっと根源的な欲求、生きることに対する必要性、「生きている」ことを肯定する意識に根差さなければいけないと言われます。
相田さんが30歳で実業の世界に入られた時、その自伝に深い感銘を受けられたという出光興産創業者出光佐三氏は、人間尊重資本主義を貫き、日本人の祖先の持つ無欲・無我・無私からくる互譲互助精神の大切さを説き続けられ、終戦の2日後「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。今から建設にかかれ」と訓示、多くの企業が人員を整理する中、約1千名の従業員を守って家族主義経営を貫き、「自分たちの利益ばかりを追求するのでなく、世のため、人のためにことを成す。義理人情、互譲互助、大家族主義もみんな「お互い」からでてきている。その「お互い」ということを世界が探している。…日本人にかえれ」等々、沢山の言葉を残されています。生きる指針を持つことの力を思いました。
宮嶋さんは、「いのちを守っているのは科学技術でなく自然のシステムであることに気づくこと。パワーゲームを行っていくのか、生きる質を求めて生きるのか問われている」と言われ、植松さんは、「『思うは招く』”だったらこうしたら、で夢はかなう“」と言われます。相田さん、宮嶋さん、植松さん…それぞれに本来あるべき姿を探求され、表層的な欲望でなく、本質への希求を形にされておいでの姿に勇気がでます。「エネルギーを突き詰めていくと、最終的には「意思」で、意思がなければエネルギーは生じない」宮嶋さんの著書にあった物理学者の言葉です。
「最も深い願望があなたです。願望が存在すれば意思が生まれ、意思が存在すれば決意が生まれる。決意が存在すれば行動が生まれ、その行動があなたの運命を決める」
古代インドの哲学書「ウパニシャッド」より
参考図書:「いらない人間なんていない」宮嶋望著 フォレストブックス
「出光佐三 反骨の言葉」水木楊著 PHPビジネス新書
63号「いのちの経済」
フェアトレードデーのファッションショー会場で、今号のBeな人、廣中さんに初めてお目にかかりました。小柄な身体から、芯の強い温かなエネルギーがあふれるようでした。会社の名前nimai-nitaiというのは、生きとし生けるものすべてにやさしくおもいやりのあるインドの神様nimai(ニマイ)と兄nitai(ニタイ)の名前。インドと日本が兄弟のような関係でモノづくりをしていきたい、そんな思いを込めて名付けられたそうです。村の女性たちに洋裁技術を教え、インドの伝統的な布を使用し、日本で腕の良いパタンナーとデザインを考え、サンプルを試作してインドに持ってゆき、ブッダガヤの女性たちに教えつつ作られた服は、シルエットがきれいで着心地がよく、年代を問わず着られます。お話を伺い、熱い思い、行動力に圧倒されました。
村の自立支援と、女性が誇りを持てるよう、仕事として対等な関係を創り、家族のように一緒に生きる社会を目指して進めてこられるのはさぞ大変だった事と思います。インドの知人たちに、ブッダガヤでだまされているのではないか、投資しても無駄になるのではないかと忠告されることもあるそうですが、会社を大きくすることが目的ではないので、仮にそうなっても構わないとの言葉に、覚悟の程が感じられました。「ひとりの人に出会うように、ひとつのモノに出会う」―タグに書かれた言葉です。インドに伝わる手仕事や素材を活かし、伝統をつなぎ、事業をとおして貧困解決に取り組んでおいでの姿勢に、社会が必要としていることを仕事にする、志ある起業の持つ大きな力を改めて感じました。
北海道の共働学舎新得農場で、障害や不登校等々さまざまな生きづらさを抱えた人たちと共同生活をしつつ、世界一と称されるチーズ作りをされている宮嶋望さんは、光、微生物、水、炭など自然の力を活かし、摂理に即した“いのちが生きている場”を創り、動物も人もストレスのない中で仕事をされている日々を「共に生きることを学んでいる。負担の多い人たちとの働きで得た収入の範囲内で生活が可能になることこそ奇跡のようだと感じます」と書かれていました。「補助金に頼らず、福祉ではないビジネスとして、きちんと成り立つような物作りと販売を継続する”生活を回す道具としての経済“。いのちの世界から遠ざかったモノの世界で、作る側の思いと求める側の思いが共鳴する、つまりは、生きていることを実感する共鳴が、貨幣経済に代わって、いのちのエネルギーが支える『いのちの経済』の原動力になるのではないか…」宮嶋さんの思いと、廣中さんの活動が重なりました。
「私たちは、誰もが地球という環境に生きており、人類だけでなく地球上のあらゆる生命とつながって生きていることこそが普遍的価値を持つ。生命の織り物の中で相互に依存しあって生き、自分の健康も、幸せも、みな他者に依存している「地球家族」である」とアースデモクラシー(地球民主主義)を提唱されているインドのバンダナ・シヴァさんは、言われます。
右脳と左脳の研究で知られる角田忠信氏の脳と周波数について書かれた文章が興味深く思われました。私たちの脳波の周波数特性は話し言葉の主成分である100ヘルツ以上だと文化により特性に差が出ますが、それ以下では「人類共通」となり、周波数が低く、波長が長くなるほど、異なる文化、異なる種の間で交信できる可能性が高まるそうです。深い瞑想に入ると、いのちのつながりを実感すると言われるのはそのためかと思いました。
人間の身体は、混乱やイライラなどで自ら身体リズムを崩さない限り、地球のリズム(振動)に共鳴・共振し、動いているそうです。自然のリズムに沿って生きる時、人間中心主義から地球中心主義に移行し、調和の取れた文化を築くことができる可能性を既に持っていることに喜びを感じました。
ダライ・ラマ法王は、「人生の目的は幸せになること」と言われます。生命の本質は歓びであり、その源は大地であり、コミュニティ。「真の幸福と健康は、手足を適切に使うことにある」とはガンディの言葉です。ものを作る力、共感する力を失うことなく、共に働き、共に生きる世界を広げてゆきたいです。
前進するなら、歴史を繰り返すのでなく、新しい歴史を創ろう。わたしたちの祖先が残した遺産に、新たなよきものを加えよう(ガンジー)
参考図書:「いのちが教えるメタサイエンス」宮嶋望著 地涌社刊
「いのちの種を抱きしめて」ヴァンダナ・シヴァwith 辻信一 ゆっくり堂
64号 「命の使い方」
名古屋で長く起業支援をされているNPO法人起業支援ネットさんが、豊かな関係性こそ本当の意味で起業家誕生に不可欠との思いで始められた「起業の学校」。昨年末10周年記念&卒業式に参加させて頂きました。「切実に社会の問題と自分を変えたいと願う人が、自身を受け入れ、他者を受け入れながら未来への希望を紡ぐための命の使い方を学ぶ場」と関戸校長は言われます。人生を考える場として、一人ひとりの人生と向き合い、寄り添い、深く関わられ、同期生・先輩・講師の方々のつながりはとても豊かです。学びの場での出会いを関係につなげ、その関係を起業コミュニティに進化させたいという学校を始められた願いが、結実しつつあると感じました。
卒業生は多彩な活動をされていますが、起業家を輩出するのが目的ではないと言われます。「自身と社会の関わり方を考え、命の使い方を学んだ起業家精神を持つ人が増えれば、社会の課題解決に向かって世界を進化させることができる」。そんな思いをより多くの人と、より深く共有したいと、11年目の今年春に福島キャンパスを開校されます。
その福島にある今号のBeな人、鈴木勲さんの㈱ら・さんたランドさんは、まさに起業化集団の会社です。2011年8月、東日本大震災から5カ月、混乱のさなかに開催された全体ミーティングに参加させて頂きました。お客様も社員さんも避難を余儀なくされた方も多く、さぞ大変だったことと思いますが、皆さん、明るく、きびきびと、さまざまな表彰やワールドカフェも交えながらの経営発表会でした。表彰されたお一人は、被害の大きかった地域でお客様・基盤を失った仲間に、ご自分が育ててこられた地域を譲られた方でした。東京に避難し職を変わられた方も全体ミーティングの為に戻って会の司会役を全うされ、鈴木さんが願っておいでの励まし合い支え合う世界を垣間見させて頂きました。働く人が可能性に気付き、発揮される事例、参加された方に喜んで頂けるよう工夫されたあれこれに胸が熱くなりました。震災後に増えた健康相談にもお応えしたいと全員が健康管理士一般指導員に挑戦される等、より深く寄り添えるように色々手掛けられています。
現代は個を超えたいのちのつながりを実感しづらくなっていますが、身体を深く感じることでも繋がりを感じられます。心臓が休まず鼓動し続け、血液を全身に回してくれること、意識しなくても食べた物が、食道から胃・腸に至り、消化・吸収されて排泄されることや、隅々まで張り巡らされた神経、脳の働き等々不思議に満ちています。一つの受精卵が進化の歴史をたどり人間として生まれるには、両親やご先祖様なしに存在しえませんし、すべての物質をつくる元となる元素たちは、星が超新星爆発したときに「星のかけら」として宇宙空間にばらまかれたもので、人間も、その「星のかけら」が集まってできていること、太陽はじめ自然界から無償で与えられているもので生かされていることに思いが至ると畏怖の念を感じないではいられません。
日本の共同社会は、人間と自然、生者と死者で営まれ、人間だけの社会ではなかったそうです。「コミュニティ・共同体は道具でなく、それ自体を目的とし、祈り・願いを介在させながら、自分たちが生きる社会を可能な限り自分たちの等身大に変えてゆく行為こそが巨大なシステム社会を空洞化させていく道をつくりだす」内山節さんの本にありました。
生きることは、自分という作品を創り続けること。生きること・働くこと・暮すこと…いのちが喜びにあふれて生きるにはどうあればよいのでしょう。ロケット博士の糸川英夫先生は「命は何のためにあるか」という問いに「地球上に人間が60億いるといわれますが、私は、人類は60億で一つの生き物と考えています。一人一人が、人類という生き物の細胞の一つなのだから、大きな繋がりの中で生かされていることに気付くとき、命の意味を知るのでしょう。だから命は、自分の為に使うのでなく、人のために使うときすべてがうまくいくようです」と言われ、感性論哲学の芳村思風先生は、異和感を感じるのは、その解決策を自分が持っている証であり、そこに使命があると言われます。「あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい」ガンジーの言葉を実践されている人が増えています。
参考図書「ローカリズム原論」内山節著 農文協刊
65号「命のバトン」
昨年末、今号のBeな人柴田久美子先生のお話を伺って間もない二月、父が満91歳で逝きました。年末から眠っていることが多くなり、年明けから、ほとんど食事をとらず、好きなカステラ、カルピスを口にすることも少なくなり水分補給の点滴で過ごすようになりました。次第に小さくなり、静かに眠っている姿を見ていて、食べなくなるというのは、旅立つ準備で、樹が枯れるように人も枯れてゆくのかも知れないと思いました。点滴も体が受け付けず、むくみが引かなくなった時「心臓に負担がかかり苦しいと思います。点滴を止めると2~3日ですがどうされますか?」とのことで点滴を止めて頂きました。
時折、顔を見に行くことしかできませんでしたが、主催するセミナーが4日後にあり、「迷惑をかけたくないので、土曜日までがんばってね」と、声をかけていました。その4日目、セミナー終了近くに、いつもついていた妹から、「急変したので、できるだけ早く来て」と連絡が入りました。片づけも終え、車で向かおうとした時、息を引き取ったとの知らせ。穏やかに眠っているような父に、感謝を伝えました。柴田先生のお話を伺った後に、見送ることができ本当に有難かったです。厳しく怖い父でしたので会話らしい会話の記憶も、手を握った記憶もありませんが、ほとんど意識がないように見える時、手を握り話しかけ、息を引き取っても温かみの残る父に別れを告げることができました。
柴田先生は、子供の頃、臨死体験され、死は魂の交流の場と言われます。京都大学のカール・ベッカー教授から「日本は急激に死を怖れる国になった、死がすべての終わりでないことを昔の日本人は知っていた。日本の死の文化を取り戻すため体験を伝えなさい」と励まされておられるそうです。最近になり臨死体験された方や、前世を記憶している子供たちの話しが多く広まるようになり、今の身体で生きるのは一回限りでも、魂は死なないことや、袖触れ合うも多生の縁という古来からの言葉の確かさも言われるようになっています。
臨床医が生と死が行き交う日々、自身の体験を通し摂理と霊性について書かれた「人は死なない」に「核家族化が進み、看取ることが減り、生老病死を間近に見ることがなく育つ人が増えたせいか、入院すれば死から逃れられると思っている人が多い。…寿命がくれば肉体は朽ちるという意味で人は死ぬが、霊魂は生き続けるという意味で人は死なない」と書かれ、良心について書かれた文章に共感しました。「本能的に否定する悪行。その本能が良心、又は良心の言葉として受ける直感であり、良心は人が現世で生きていくための目標となる摂理の声であり、その声に素直に耳を傾けて従い、あるがままに生きていけば良い。我々は摂理によって創られた自然の一部であり、摂理によって生かされている」どこから湧いてくるか分からない良心、それが魂の声ではないでしょうか。
柴田さんは、「ただ生きること、あるがままの存在そのものが素晴らしいということを幸(高)齢者の方々から身を持って教えて頂いた」と言われます。生きるとは、死に向かって進むこと。老いや死が敗北であったら、誰も、人生が失敗になります。「死の意味は、魂を受け渡し、それを人類の進化につなぐ新たな旅立ちであり、魂を使い捨てにせず、しっかりいのちを引き継ごう」と柴田先生の著書にありました。
死は、生きている人に限りがあることを教えてくれるものであり、生は長さに価値がある訳でも、成功することに価値がある訳でもなく、いのちある間は、あるがままに懸命に生ききることが、バトンを渡してゆくことではないか、そう思えます。
真の宗教とは真に生きること。自分の魂と善良さと正義のありったけを込めて生きることである・・・
アインシュタイン
参考図書「いのちの革命」柴田久美子著 きれいねっと刊
「人は死なない」矢作直樹著 バジリコ㈱刊
「人は死なない 」書評
66号「生きる力」
今回のBeな人、飯尾裕光さんに初めてお目にかかったのは、昨年のセヴァン・スズキさんの講演会でした。準備の時の動きも、お話もパワフルで、幼少期の自給自足暮しや、小学校4年生3学期に復学した時の衝撃から学ぶことに目覚めたお話等々に聞き入ってしまいました。インドでの除虫菊栽培指導や、会社での青空食農教室等々多彩な活動を展開されている飯尾さんに核となる思いを伺ったところ、「活動の原動力は、自分がどう生きたいか、それに尽きる。ちゃんとして生きたいだけ」とのこと。そんな思いはどこから生まれるのかと思いました。
「ヒトは“教育”によりはじめて“人間”になることができる。これが“人間の生物学”。
体は自然が創ってくれるが、心は10年生理的早産であるため適時・適切な養育・保育・教育により始めて成長するように仕組まれており、先ず3歳までに脳に眠る原始時代からの記憶、人類の歴史の記憶を呼び起こすようにスキンシップや絶対的な愛情で、感性=生きる力を目覚めさせる。4歳~10歳で好奇心・遊び、模倣(ごっこ遊び等)に夢中になり基礎訓練を通じて感性を仕上げ、内発的な知性につながる。10歳頃が社会的人間のスタートで、自ら学び知性を仕上げ、志や夢を持って問題意識的人生を生きる大人となる」。大脳生理学の井口潔先生の言葉は、飯尾さんの幼少年期をたどるようで、生き方の原点を垣間見せて頂いた気がしました。
現代は忙しすぎ、“いかに生きるべきか”という心の声が聞こえにくくなっていますが、感性は、何が楽しいか、嬉しいか、ワクワクするか教えてくれる人間の本性、生きる力であり、意志の強さは理屈を超えたところから生まれ、いのちから湧いてくる欲求・興味・関心・好奇心が強いほど理性が働き実現の方向に進み、理性だけでは意志の強さは生まれないと感性論哲学では言われます。「おむつなし育児」は、気持ちいい排泄を経験させてあげることを通し、体と心が気持ち良いと感じられる人間の土台を育てることと伺いました。気持ちいい身体体験を持っていると共感力が高くなるそうです。いのちの土台である感性を育むことの大切さを昔の人は、ひとつ、ふたつ~ここのつ―9歳までは神様の子で、10歳から人間になることを「つのつくうちは神の子」といった言葉で表現したのでしょう。
脳が全能であると思いがちですが、神経伝達物質の多くが腸で作られ、皮膚にも多くあります。「体を鍛えると自分をより細かく深く見る力、客観的に自分を見る力が発達し、自分の本性を新たに発見するようになり、人生の可能性と真の願いを選択する力、 ビジョンを拡げる新しい観点を持つことができるようになる。」夢や志を持っていても、丹田力が弱いと実行力が湧かないから鍛えるように、とヨガでいつも言われます。
「日本の伝統芸能・武術は、身体、人間の智恵が凝縮されており、丹田が鍛えられ軸が形成されると自在性ができる」能を稽古をされている方から伺いました。「どんな趣味でも稽古三昧の反復練習は、身体の仕草の仕込みで、自然をいかに体現するかの営みであり、身体を通じて自我から遠ざかり、自然(神)の声が聴ける心境になるところに人間完成の姿がある」と井口先生が書かれていますが、力が抜け、筋肉が緩み、詰まりのない状態になると受信能力が高まり、無意識の世界とつながり感性の世界に入るそうです。
廃食油で世界一周された山田周生さんから伺ったお話が心に残っています。砂に囲まれたサハラ砂漠の中で、自分が風であり、空気であり、砂粒になると、抜け出せないように思えた砂漠の中で進むべき道が1本見えるそうです。受け入れ、感謝し、許すことの力と難しい問題ほど足元に答えがあるので、目の前の事に一生懸命になることと言われました。
持っている宝を掘り起こすのは身体を通して。右脳と左脳、心と身体を統合し、自然の理法に添って生きる道が足元にあります。
参考図書「人類が向かうべき進化の方向は『無の境地だった』井口潔 ヒトの教育の会編
「身体の言い分」内田樹・池上六朗著 毎日新聞社刊
67号「手入れすること」
今号のBeな人、中村武司さんと初めてお目にかかったのは、ダム建設の為沈む村で解体される家があるので活かせるものがあれば、と誘われて三重県に行った折でした。太い梁のしっかりした民家、掃除して風を通せば土壁の木造建築は100年持つと言われますが、どんどん壊されていました。それを目に、樹が育った歳月、暮された人たちのさまざまな思い出も跡形もなく水底に沈むのかと思うと切なくなりました。
中村さんが、危機感を覚えておいでの2020年施行予定の改正省エネ法の発端は、4年前の東日本大震災の原子力発電所事故で、よりコントロールされたエネルギー政策が必要になり、住宅も基準適合義務化が求められてきているそうです。土壁の断熱性能は低く目標数値に届かず、外部と接する壁や天井などは工業繊維系の高性能な断熱材でくるみ、窓も極力小さくして日射しの侵入を抑制することや、熱エネルギーを逃がさないつくりにする指導で、ビルのような密閉された空間の中でエアコンを使って温度管理することが、住宅の中でも標準化され、夏も冷やされた空気をいかに外に逃がさないかという暮らしが推奨されようとしているのだそうです。
我が家は集合住宅の一室ですが、ベランダに敷いたすのこで照り返しを防ぎ、置いた植木鉢と、目の前の葉を広げた大きなケヤキのお陰で、冷房なしで暮らし、年中窓を開けています。差し込む光に、頬をなでて通り抜ける風に季節の移ろいを感じ、風鈴や揺れる暖簾に涼を覚え季節を味わう楽しさは格別です。電気ありきで家庭までも管理され、自然と隔絶した暮らしになると日本人の特質と言われている繊細さ、智恵、風情が育つ基盤が失われはしないでしょうか。
もっと、自然の恵みを活かして暮せないかと思っていた矢先、「エクセルギー(エネルギーや物質の拡散能力)」を活かした暮しについての記事に出会いました。身体は小宇宙、住まいは中宇宙として捉え、太陽の光は光のまま、風は風のまま豊かな資源で、自然の恵みをそのまま活かすことで、電気やガスといったエネルギーをほとんど使わず快適な暮らしを実現するというエクセルギーハウスは、地域の自然のいとなみを良く知り、活かし、エネルギーを使わない暮らし方だそうです。
微生物や炭、太陽の光を活かした建物、チーズ作りで、世界のコンテストで金賞を取っておいでの共働学舎新得農場の宮嶋さんは、「自然と一体になっている方が高い質を生みだせる」と言われ、朝日と夕日が刻む新陳代謝のリズムに沿って暮すことは、日々を豊かに暮らすための必須条件と言われます。
『人間は自然との折り合いが必要で、その絶妙なバランスを手入れと呼び、日本の田や里山風景となっている。』という養老猛司さんの文章に、二宮尊徳さんの言葉を思い出しました。人と自然、人と人、強い人と弱い人が互いに幸福になるにはどうすればよいか考え詰め、出た答えが、『自然に半分従い、半分は人が工夫、対策することで、自然と共に、豊かに暮らせる。自然を良く見ると必ず発見がある』というものでした。美しい里山も棚田も、古民家も長年月、人が心をこめ、手入れした賜物です。
養老孟司さんは「都市化し、知識優先の世界は、何でも頭で考え、ああすればこうなるという風に解決できると思いこみがちだが、お化粧であれ、子育てであれ、どうなるか分からなくても毎日とにかく手入れするというのが日本人の生き方。意識偏重から抜けるには、波、地面、虫、1本の木何でもいいから、人間が意識して作ったものでないものを1日15分でも見るようにすること」と言われます。身体も、家も、何であれ手入れすることでかけがえのないものになります。心をこめて手入れし、自然のリズムと共に暮らしたい。
参考図書「手入れという思想」養老孟司著 新潮文庫刊
「いのちが教えるメタサイエンス」宮嶋望著 地湧社刊
「エクセルギーハウスをつくろう」黒岩哲彦著 コモンズ刊
68号レポート「いのちの対話」
「身体は、愛と調和の場― 西洋医学は、病気を悪いものとして倒そうとする戦争の考え方と同じで、自分そのものだった筈の細胞を敵として体を戦いの場とみなすのに対し、非西洋医学は、なぜ体が不調和になっているか考え、自分を調和の場とみなす――病気やからだに対するとらえ方を「戦いの場」から「調和の場」へ変える事が大切で、それが外なる調和を生む」今号のBeな人、稲葉俊郎さんのお話に深く共感しました。医療を広く捉え、宗教、哲学、美とさまざまな分野に精通し、お能も稽古され、日本の伝統芸能や茶道・華道・武道等の「道」には、身体と心の智恵が凝縮しており心身一如が身につくといった事等、いのち原点からのお話に引き込まれます。
からだの60兆個の細胞は交信しあい、呼吸により酸素を細胞内のミトコンドリアに運び、そのミトコンドリアがエネルギーを生産して私たちは支えられているからこそ深い呼吸が大切であり、皮膚、腸内にいるおびただしい量の微生物のお陰で、いのちは保たれています。画期的手法の導入で微生物の生態がいろいろ判明しています。地球の歴史の大半は微生物だけの世界で、酸素をつくったのも生物界をつくったのも微生物であり、ほとんどあらゆる生物との間に張り巡らしている共生関係と、微生物細胞の間も遺伝子と科学信号を介するネットワークで、環境の変化に適応して急速に進化し続けているとのことに、「微生物様は神様」と常に口にされる平井孝志先生から伺っていたあれこれが顕われる時代になったものと感慨深いです。
稲葉先生は、本来の対話は心・からだ全てを使って交流することであり、言語だけでなく、非言語、存在同志でも交流し、花・木・自然とも日々対話していると言われます。
植物の出す周波数を音に変換する装置から流れる植物の歌を聴きました。驚くほどのメロディの豊かさ、優しさ、聴いていると心が静まり、物言わぬ植物がこんな豊かな波動を発していることに感動しました。片方のセンサーは土に、もう1方を葉につけて変換器に繋ぎますが、うまくチューニングできず音が鳴らない時、片手を葉に添え、もう片方の手でセンサーを持つとチューニングできて歌い始めます。まるで脳である変換装置がうまく音(言葉)にできない時、人の手を介在させることで音(言葉)にするかのようで、ふと白雪姫プロジェクトの指談(ゆびだん)を思いました。
意識障害等で思いがないと思われる方も、介する人が障害のある方の指を持ち、左脳でなく、無意識の世界である脳幹を活性化させて指の動きを感じとることで、障害のある方の思いを言葉にしてゆく方法です。いのちあるものは振動し、共鳴しています。微生物も、植物も、人の細胞も信号を通じてやりとりしているのだから、信号を受けとめ合えるものと思いました。
大いなる自然とつながって暮していた昔の日本人は、虫・動植物にもいのちがあること生も死もひとつながりであることを感覚として持っていました。自然にふれると原始感覚が呼びさまされ、空・雲、鳥などを見ていると“いのちの記憶”を思い出せるそうです。自然に接したり、その知恵が凝縮されている日本文化を通じ、調和の世界に向かえることに喜びを感じます。
参考図書:「見えない巨人微生物」別府輝彦著 ベレ出版刊
「無意識の整え方」前野隆司著(藤平信一、松本紹圭、山田博、稲葉俊郎氏対談)ワニ・プラス刊
ブログ:「吾」http://blog.goo.ne.jp/usmle1789
69号レポート「共存在社会に向けて」
グローバル化した資本主義経済が行き詰まり混迷を深めています。場の研究所所長清水博先生は、文明の転換には人間の生存原理の転換が必要で、競争原理を乗り越え、地球における人間を含めたいきものが共に生きていく共存在原理によって「生きていく」形を実現させなければ、持続可能な存在は実現しないと言われ、共存在の居場所のネットワークづくりを助けつつ、新しい市場を開拓する共存在企業がネットワークを繋いでゆくことの大切さを言われます。
今号のBeな人、岸浪さんの講演を伺い、決まりもルールも上下関係もなく、人が幸せに生きられる社会を願って運営されているアズワンコミュニティの「おふくろさん弁当」は、「いのちの居場所」をつくり企業活動をされている共存在企業と思いました。いろいろな働き方があり、おせち料理だけ参加の人、月に1、2度の人、1週間休んで旅行に行く人、研修会に参加する人ありで、1か月20日以上勤務の人は60人中なんと7名。その日蓋をあけないとシフトがはっきりしないにも関わらず、業界では考えられない始業時間の遅さで、日に1000食のお弁当を作り1個からの配達、店頭販売もされています。アズワンコミュニティではお金にとらわれない暮しの実験もされていますが、「おふくろさん弁当」の社員さんは、コミュニティメンバーでない方が多い中、何でも話し合い、会社がお金の呪縛から離れ、こうだと良いなぁが形になっており、ここまでやれるの?、とカルチャーショックを受けました。
新潟の河田珪子さんが始められた「地域の茶の間」も、同じように人と人のつながりから安心社会を広げておられます。子供からお年寄りまで年齢、障がいのあるなしに関わらず誰でも参加でき、「初めての人に“あの人誰!”という目をしないこと」「台所以外ではエプロンをしない」等々参加された人が安心していられる工夫が随所にあり、ケアする人・される人でなく、共に場の利用者として、大切にされる中で生きる力や喜びを引き出されています。講演会で観た「実家の茶の間・柴竹」の様子は、誰が介護されている人かも分からず、笑いがあふれていました。
「おふくろさん弁当」も、「地域の茶の間」も、上下の関係でなく、人と人の関係があり、「お互い様の世界」、「いのちの居場所」となっています。ダライ・ラマ法王は「人生の目的は幸福を求めることであり、人は親密な結びつきを通じて、人生を生き抜く力や喜びを引き出し、その人の提供するものを通じて、人は他の人に生きる力や喜びを与える」と言われます。
環境心理学者が1年間お金を使わずに生活したレポートを読みました。「必要なこと・ものは、多くの人と小さな協力をしながら行ったので、新たに生まれた人間関係で以前より活気づき、人に頼ることができることを感謝するようになっていたので、プロジェクト終了後お金を使うことをためらった」とありました。「キャリアやお金を心配せずに動くと、周りの為にもなり、好きなことだけやって、新しい事を生み出すと経済活動に貢献する。“経済は人の為にあるべき”なのです」という言葉は、「おふくろさん弁当」の世界観でもあります。
本当にやりたいことに挑戦すること、社会の中で助け合うネットワークの力。大きな革命を待たなくても、日々の営みの中から願う世界に楽しく移行できる、そんな喜びを感じました。壁は、自分の中にありました。
参考図書「いのちの普遍学」清水博著 春秋社刊
「地域福祉の拠点」清水義晴著 (株)博進堂刊
70号レポート「生きるとは自分の物語をつくること」
遺跡写真で知られる井津建郎さんが始められたフレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダー(Friends Without a Border国境なき友人達)の事を知ったのは、2009年に現代表の看護師赤尾和美さんのお話を伺った時でした。1995年にFWABを設立。多くの方に無料小児病院建設の思いを語り、世界各地2000人に及ぶ人達の協力で病院開設。ポル・ポト政権下、医師の多くが虐殺された為、世界各国からのドクターがボランティアで診療、現地スタッフ教育にあたり、ハードとソフト両面の支援でカンボジアの医療文化の変革施設として育ち、予定通り2013年カンボジアの人に運営を渡されました。
いつかお話を伺いたいと思っていたところ、清里フォトミュージアムで開催中の井津さんの新作展で、チャリティライブがあり参加しました。物静かで柔らかな語り口で話された建設を思い立たれた経緯や、土地の借用期間延長をフン・セン首相に直談判されたこと、病院運営資金を10数年間募金・チャリティ等で調達し続け、ラオスでも病院建設を始められたこと等々に、ひとりの願いが持つ力に感動しました。
同じ頃読んだ、戦下のアフガニスタンで30年医療活動を続けておいでのべシャワール会中村哲さんの著書にも心が震えました。戦争と旱魃の中での活動を通じ、農村の回復なくアフガニスタンの再生はないと「緑の大地計画」を開始、百の診療所より1本の用水路を、と専門家は手をつけない過酷な灌漑工事を続け、足掛け7年で用水路全長24km、生まれた沃野に60万人以上住めるようになったそうです。死の谷と呼ばれたガンベリ沙漠横断水路と緑地帯の写真、「森では小鳥がさえずり、遠くでカエルの合唱が聞こえる」という文章に胸が熱くなりました。総工費14億円は、全て「べシャワール会」に寄せられた会費と募金によりまかなわれ、募金者年間二万人以上、現地と日本双方の良心の結晶、と書かれていました。
どちらも奇跡のような出来事に思えますが、お二人とも人間を超えた存在への敬虔な思いを持って行動されています。井津さんは、「遺跡は聖地・祈りの場なので敬意を払わなければいけない」と、三脚を立てる前に拝み、終わったら跡を残さないようきれいにされるそうです。中村さんは、「私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人の真心は信頼に足る。・・・人としての倫理の不変性を信じる。そこに意思を超える神聖な何かがある」と書かれています。他の為に生きることは生物のもつ根源的欲求と言われます。畏敬の念を持つ無私の深い願いは、人の奥深い願いに共鳴して多くの支援者を生み、天意を動かし、不可能を可能にするかと思いました。
大きな衝撃を受けたとはいえ、井津さんが病院創設を思いたたれたのが少し不思議でしたが、子供の頃医者になりたかったというインタビュー記事を読み、腑に落ちるものがありました。昆虫少年だった中村哲さんをアフガニスタンと結んだのは昆虫と山だそうです。夢や願いは、伏流水のように奥深くを流れ、湧水が地表に噴き出すようなものかもしれません。「さまざまな人や出来事との出会い、それに自分がどうこたえるかで行く先が定められてゆきます。個人のどんな小さなできごとも時と場所を超えて縦横無尽、有機的に結ばれています。そこに人の意志を超えた神聖なものを感ぜざるをえません。」と中村さんの著書にありました。生きるとは地球を舞台に、自然や、だれかと関わりながら、自分の物語をつくりながら続ける旅のようです。
「内なる直感を信じ、自然との一体感を取り戻した時、自然の英知が自分のものとなる。一人ひとりの中に変化を起こす力があるからこそ責任がある」アービン・ラズロー
参考図書:「天、共に在り」中村哲著 NHK出版刊
「ぼくたちは今日も宇宙を旅している」佐治晴夫著 PHP研究所刊
71号レポート「時が紡ぐもの」
十数年前、鶴見和子さんと中村桂子さんの対話まんだら「40億年の私の生命」を読んで以来、生命誌にとても惹かれています。「人間も自然の一部である」という考えに基づき自然・生命・人間を大切にする生き方を描いたという生命誌研究館館長、科学者中村桂子さんのドキュメンタリー映画「水と風と生きものと」上映会があると知り出かけました。
「すべての生きものが38億年と言う時間がなければ今、ここに存在しない。生きものは時間が作るので、生きものを壊すことは、それが生まれてくるまでの長い時間を奪う」ひとも、植物も動物も、地球上の生きものとして祖先を一つにしており、38億年の歴史を持つ、つながりの中にあることがゲノムの研究から言えることが嬉しく思われました。
以前は、虫もヘビも苦手でした。けれど雑木林にしばしば出かけていろいろな虫等と接するうち、少しお邪魔させてください、と言う気持ちが強くなりました。映画でクモや、イチジクの中に共生するハチを観て、なんとすごい仕組みでいのちをつないでいるのかと、畏怖の念と、愛おしさがあふれ、観終わった時はすっかり仲間気分でした。
今号のBeな人、高月美樹さんの手帳「和歴日々是好日」は、日本文化の引き出しのようです。季寄せは常に自然と一体になることを「美」と感じてきた日本人の価値観が凝縮されたもので、森羅万象に畏敬の念を抱き、万物に神が宿ると考えた「八百万神」と表裏一体をなすものだそうです。「聖(ひじり)」の語源は「日知り」と書く大和言葉と言われ、天候が読め、種まく時期や採る時期を風の匂いや、雲の動きなどで判断して身を守る術を伝え導いた人とのことだそうです。自然との一体感は、五感が大切で、理性や想像力では、色や匂いという感覚的性質にたどり着けないそうですが、手帳を読んでいると日本人がどれほど深く自然と関わって生きてきたかに驚かされます。
生きものにとり、眠ったり、食べたり、歩いたりする日常が最も重要で、生きることは時間を紡ぐことであるので、手を抜くとか、時間を飛ばすことは、生きることの否定になりかねないと中村桂子さんの本にありましたが、現代は、食も、身体を使うこともなおざりにされて、地に足がつかずふらふらして倒れやすいとか、転んだ時に手をついて支えられず、顔から転ぶので鼻を骨折する子がいるとも聞きます。使わないでいると身体は不要なものとみなし機能が失われます。生きる上で大切な五感、しっかり立つことさえも失いかねない危惧を感じます。
北海道美瑛の天文台で、佐治晴夫先生に望遠鏡で太陽を見せて頂きました。微かに見えるお粥がふつふつするようなものは、固い太陽の中心から7000年かけて出てきた光の赤ちゃんが生まれ出るところだそうです。心が震えました。一匹のアリもヒトも137億年前に、一粒の光から生まれ、何度も枝分かれしながら進化を繰り返し、今ここにいるという事実を教えてくれるのは現代科学によって語られる宇宙論とのこと。「宇宙のひとかけら」から生まれたわたしが、今、7000年前の光を浴びていると想うと厳粛な気持ちになります。
山元加津子さんの映画「銀河の雫~はじまりはひとつ」は、心の奥から温かさがこみ上げる映画でした。自然から生まれ、自然に還ることが当たり前のネパールの人達「みんなひとつで、あなたは私かもしれないし、花かもしれないし、鳥かもしれない。空かもしれない。目の前のものやことや人を大切にすることが大切と、私たちは小さい時から学んできました」語られる言葉、笑顔が、みんなつながりあっていることを思い出させてくれる映画で、ほんとの賢さ、豊かさは何かということも考えさせられました。
気が遠くなるような長い時を経て、今ここにあることの不思議。「“人間は生きものであり、自然の中にある”という当たり前のことを基本に暮らすというのが生命誌の求める社会」と中村桂子さん。それぞれを尊重し、生きることが、共に生きられる社会に続く。足元に道があることをいろいろな方面から教えてもらえます。
「あなたも素晴らしい、私も素晴らしい。どうして争うの? 受け入れればいい。みんな受け入れればいい。最初はひとつ。同じだよ 映画“銀河の雫より”」
参考図書「科学者が人間であること」中村桂子著 岩波書店
鶴見和子対話まんだら 中村桂子の巻「40億年の私の生命(せいめい)」藤原書店
「からだは星でできている」佐治晴夫著 春秋社
72号レポート「共感する力」
今号のBeな人、ウォン・ウィンツァンさんが平和への願いを込め沢山のお友達のボランティアで創られたチャリティCD「光を世界へ~Yes all Yes」のコンサートに行きました。湯川れいこさん、鈴木重子さんはじめ長年のお仲間や、コーラスグループの人達の思いと友情にあふれたステージでした。「Yes all Yes 平和の鐘を鳴らそう Yes all Yes 光を世界へ贈ろう、Yes all Yes すべては愛だと気づくだろう」繰り返されるフレーズが心に響き、胸が熱くなりました。
「戦うことを止めると痛みの中で誓った 平和を皆で望めば きっと叶うだろう」と言うフレーズに浮かんだのは、国民の3人に1人が命を落としたと言われる中、報復せず独立した東チモールのドキュメンタリー映画「カンタ!ティモール」。「大虐殺から20年経ったルワンダは、モニュメントにNever Againと刻まれ、人も優しく街も綺麗でピースフルで、20年間人々が憎しみ合わない努力をしてきたことが何よりも素晴らしい」―ルワンダのお仲間と共に素敵なアクセサリーを制作・販売されているBASEYの吉井さんから伺いました。私たちは、怒りに身を任せることも、平和な世界を創ることもできます。
「人類は愛に支えられて、ようやくここまで繁栄してきたのではないでしょうか。視点を変えるなら、この世界は愛に溢れている」とウォンさんがブログに書かれていますが、人間は未成熟で生まれ、世話してもらわないと生きてゆけませんが、幼い頃お乳をもらい世話をされ、欲求が満たされた時代に感じた贈与は良いものという仕組みは消えないので人は愛し合うことができるのだそうです。そして、他者の喜びを自分の喜びと感じ、悲しみを悲しみと感じられるのは、脳にある共感する細胞と言われるミラーニューロンの働きと言われ、自分が体験していなくても、同じ反応が脳内で起こり、自分が体験しているように感じるからだそうです。
「共感能力・ミラーニューロンと、非常に重要な関係にあるのが、物真似やままごと遊び。また、音楽を伴う踊りは、共感能力を高めるうえで、非常に重要な働きを持っている文化」という一文を読み、伝統の祭りを取り上げた番組を思い出しました。お年寄りが子ども達に笛や太鼓の基礎、所作を教え、一人前になると采配を振る機会が与えられ、地域の人達で守り続けておられました。小さい頃から大人と共に創りあげてゆくものがある中で、身につけることの多さを思いました。段取りをつける、気持ちを察することの苦手な人が増えていますが、小さい頃から遊びやお手伝いの体験が少ない上、便利快適を追う社会で、手塩にかけることが減り、社会に人を育てる感覚が希薄になり、さまざまな経験を積み重ねて成長してゆく機会が持てないことと関係あるでしょう。いのちは手抜きができず、心も様々な体験の中で育まれ成熟してゆきます。
場の研究所の清水博先生は持続可能な地球をつくるには、“いのちの与贈”がある居場所を創ってゆくことが大切と言われ、与贈のことをマザーテレサの言葉を引いて説明されていました。「愛そのもののために何かをするべきで、何かを得るためにするのではありませ
ん。見返りを期待するなら、それはもう愛ではないのです。本当の愛とは無条件で、何も期待せずに愛するということだからです。」『居場所』とは、細胞に対する個体、人間に対する家庭、企業、地域社会、生態系、地球などのことで、生き方を変えれば、『居場所』の方もそれに応じて変わり、また『居場所』が変われば、生きものの生き方もそれに応じて変わります。
ウォンさん達のコンサートは愛にあふれたステージで、聴衆がそれに共鳴・共感してコンサートホールは何とも言えない温かさに満ちていました。「この世界に生きとし生けるもの命たちへ、この音楽を贈ります」というウォンさんの願いを確かに受け取りました。
参考図書:生命誌年間号vol.77-80「ひらく」中村桂子編 新曜社刊
場の研究所清水博先生ブログより
73号「わたしたちは地球家族」
今号のBeな人、倉田浩伸さんは生きるとは何かを見つめられ、インフラ・産業・人材、何かも失ったカンボジアの人々が平和に暮らすために本当に必要なことを考え、戦争をしなくてすむような社会づくりには、安心して暮らせる産業育成が必要との思いで、内戦により壊滅し、記憶から消されていた世界一美味しい黒胡椒栽培を伝統農法で取組み、2011年にはカンボジアオーガニック農業協会よりカンボジアの産物初の「国内オーガニック認定」取得、胡椒を通じカンボジアの産業を育成し続けたいと頑張っておられます。
長年紛争地支援をしてこられた方が、関わり始めた当初よりも紛争が増え、シリアを見ていると辛くてたまらないと言っておられました。放映される逃げ惑う人々や、美しかった都市の面影もない瓦礫の山に、文明は発展しているのかと暗澹たる気分になりますが、戦争は自分の行く手を阻むものを破壊しながら占領地を拡大し、その地域の社会・文化・歴史・言語・記憶といった基層文化を破壊することで地域支配をするという文章を目にしました。日常にも様々な紛争の種があふれており、自分の中にもそれはあります。
どこに行っても同じブランドショップ、大型ショッピングモール、街は同じような顔になり、減る一方の商店、小企業。雑木林も、風情ある町並みもどんどん消えています。バブルの頃から社会のまっとうさが失われ、利益のためになりふり構わない強いもの勝ちの世界が加速してきました。一昔前は、余人をもって代えがたい仕事ができるようになりなさい、と励まされましたが、今求められるのは即戦力。プロセスでなく結果、できること・強い事が正義で、言葉が単純化し、心の機微や微妙なニュアンスは表現されにくい社会。
子ども達は、生きる上で大切なことを片隅に追しやられ、小さな頃から競争社会にさらされ、いのちを消耗させています。不登校の小中学生は12万人に及び、子供の自殺は本当に痛ましいです。小さな違いを標的にするいじめは、大人の世界の反映でしょう。物事を原点から見つめる余裕を私たちは見失っています。
森の木々は、それぞれ自立しつつ地下のネットワークで協力し合っていることが実験で分かったというレポートを読み嬉しくなりました。母なる木は異種間でも、若い木々や、弱っている木に炭素を送り、自分の根を広げすぎないようにして世話をしているそうです。まさに自立連帯、やはり自然に学べです。森の大規模な破壊は水循環に悪影響を及ぼし、野生動物を追い詰め、森の単純化は山火事が起こるなど壊滅的になります。
ミツバチの減少も世界的な問題です。38億年前に一つの祖細胞から生まれ進化したいのちが、地球上で絶えることなく続いているのは多様性のお陰で、いのちは信じられないようなつながりで関わり合い支えあっています。経済か環境かという問題ではなく、人間だけがそのつながりから外れて生きられる訳がありません。
「買物で支払うのは、お金でなく貴重な時間なのです。自覚を持ち、助け合えば世界は変えられる。世界から過酷な貧困を取り除き、浪費を止めよう。」とはウルグアイムヒカ大統領の言葉ですが、誇りを持って生き・働くことを選ぶ人、地域に根ざし農的暮しを始める人、エコビレッジや、新しい会社や流通の模索、地域通貨等々、持続可能な自然と共に生きるローカルな暮しへ移行する人達が増えています。
生命誌研究者中村桂子先生がドキュメンタリー映画「水と風と生きものと」の中で「今分かっている生きものの知識を総動員して新しい文明をつくるとき。経済万能、グローバリズムは限界で、宮澤賢治の言う、本当の賢さ、本当の幸せについて考え、自然と向き合って技術を使おう」と語られたことに深く共感しました。
「人間は他の動物と違って1種類しかない、ヒトって本当に1種類!ヘイトはありえない」中村桂子先生の言葉が響きます。このことが当たり前になれば、どれほど平和になることでしょう。みんな地球の仲間です…。
参考図書:「戦争という仕事」内山節著 信濃毎日新聞社刊
「いよいよローカルの時代」ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ+辻信一 大月書店刊
74号「循環者になろう」
昨年末、お釈迦様の足跡をたどるインドの旅に出かけました。真夜中にコルカタのホテルに着きました。翌朝、移動時間まで少し散策しようとホテルの門から出かかった時、目に飛び込んできたのは道路の向かい側の建物の塀に掛けられたブルーシートと路上生活をされている人々でした。瞬間、見てはいけないものを見てしまったという気持ちに襲われ、踵を返しました。ホテルで心地良く眠り、美味しい食事をした私。物乞いの子どもや大人のいる道路をはさんだ天と地の違いに衝撃を受け、その前を通り抜けて散歩することができず、しばらくホテルにいました。
さまざまな格差を知識としては知っています。けれど、その違いの中に身を置いたのは初めてで、見過ごすことは不道徳、という思いに駆られました。頭がぐるぐるするだけで何も考えられませんでしたが、少なくとも足るを知り、全体で分かち合う公平な世界を目指さなくてはと思いました。
サティシュ・クマールさんの師匠であり、ガンディの後継者と言われた、ビノーバ・バーべ師は、最貧困と言われる人々に寄り添い、「土地があれば食べ物を作れる」という訴えに、大地主達と共に話し合い、所有者が自主的に貧困層へ土地の贈与を行う土地寄進運動(ブーダーン運動)が1951年からスタートしインド全土を歩き450万エーカーの土地を譲り受け、分け与えられたそうです。愛情やおもいやりはすべての人間の心にあふれており、誰もが与え、贈るべき何かを持っている、だから与えよう、贈ろうと語られています。
インドには自分が社会から受けた恩に報い、借りを返して自由になる「ダーナ」と言う考えがあり、見返りを期待しないで差し出すものなら、なんであってもそれはダーナ。贈与はチャリティや慈善、施しでなく、分かち合い(シェアリング)により本当の意味での社会の豊かさが生まれると言われています。
今号のBeな人、藤本倫子さんは、70歳から恩返しの人生と思い定め、つつましく暮しつつ、危機に瀕した地球を未来に渡さないよう、自費で「環境保全活動助成基金」を立ち上げ、酵素の研究をされた結果生まれた生ごみ処理機「くうたくん」や、21種のアミノ酸による酵素活性技術で消臭&植物の生長促進液「銀の雫」等を開発されました。魚市場のニオイが消えたという抜群の消臭力があり、お風呂にいれると浴槽が汚れにくく、残り湯で掃除・洗濯と余すところなく使い切れます。今の人は手をかけることが嫌いだけれど、循環社会を創るには、一人一人が環境親善大使になった気持ちで手をかけることが大切と言われ、助成基金は子どもエコクラブの活動資金にも活かされ、まさにダーナを生きておられます。
現代社会の不平等、対立、闘争に基づく社会構造が平等と助け合いに転換し、持続可能な社会に向かうにはどうあれば良いのでしょう。自分が作った訳でない土地、空気、水、資源は、すべての生きとし生けるものとの共有財産で、未来から、森や資源を奪う権利は私たちにはありませんが、後始末を考えず汚し、壊し、地球と未来につけを回しています。
ビノーバ師が目指されたのは土地の贈与を通じて、愛と共感に基づく社会を創ること。愛と共感でつながることにより、初めて物事を根本的に変えることができると常に語られていたそうです。人もいきものであり、すべての生きものと共に生きていることが当たり前になれば共感しあって生きる社会を創ることができるのではないでしょうか。
フェアトレードの輪は世界中に広がり、様々なシェアする暮しも広がっています。消費するだけの消費者でなく、生活のあらゆる場面で自然や人とのつながりに目を向け、生態系の回復や平和を願って暮す循環者として生きる輪の広がりを願っています。
参考図書
「怖れるなかれー愛と共感の大地へ」ビノーバ・バーべwith サティシュ・クマール
編辻信一・上野宗則 ゆっくり小文庫
75号「共に生きることは原点」
75号のBeな人、寺島純子さんの会社オフィスエムは創業30年社員4名の出版社。多彩で良質な本を手掛けられ、昨年出版された「信州の料理人、海を渡る。」は世界唯一の料理本のアカデミー賞と言われるグルマン世界料理大賞ローカル部門でグランプリを受賞されました。味のあるビルで、オフィスエムの他、ブックカフェやキッチン、ギャラリー&フリースペースをされています
2016年から、故郷信級(のぶしな)で限界集落なんかじゃなく、限界を突破した未来集落をめざし、誰もが輝ける多様性に満ちた場所にしたいとスタートされた“のぶしなカンパニー”の食堂「かたつむり」初縁日に伺いました。80代現役、70代は若手、住人の半数が一人暮らしだそうですが、山菜やタケノコを持ってこられる人、コーヒーを飲みに、仕事を終えビールを飲みに、神楽の練習帰りの若者が買物に寄って立ち話と、村唯一の食堂は、入れ代わり立ち代わり老いも若きも中年も混ざりあって和やかでした。
若い移住者たちを惜しみなく応援されているという82歳の炭焼きチカオさんは、出稼ぎに一度も出ず、蚕、山羊も飼い何でも自家製。「大きな災害や、社会が大きく変るまで分からないかもしれないが助け合い、シェアすること、コミュニケーションを取ることが何より大切」等々、体験に基づいた言葉の一言一言が胸に沁みました。
今は廃校になった小学校は、水道も水源もなくプールがなかったそうですが、他の地域の子たちと同じ体験をさせてあげたい、と村人総出の作業で水源豊かな向かいの山から、学校のある山へパイプを引き、サイフォンの原理で水を上げてプールを作られたと伺い仰天しましたが、考えれば一昔前は、ない物は自分で作る、直すが当たり前でした。自然と共に、恵みの中で生きる術を持ち、地に足をつけて暮す人の確かさをまざまざと感じ、知識で語ることの薄っぺらさを羞じる思いでした。
『人類の人間としての出発点は「食物の共有」と「共同保育」それによる「共感力」で、一緒に食べる中から共感・同情と言った大切な感性「人間らしさ」を育み、集団で助け合うことで生きる場を世界各地に広げていった』と、人類の足跡をたどる旅「グレートジャーニー」の関野吉晴さんとゴリラ研究者山際寿一さんの対論「人類はなにを失いつつあるか」にありました。体を進化させない人類を極北の地でも暮せるようにしたのは「針の発明」だったそうです。衣食住は遠い祖先からの知恵の集積です。貴重な布はぼろになっても活かし切り、自前で食糧生産ができるようになり、種採りして命を繋ぎ、家は手入れして大切に住み継いできました。生きていくことを阻害するものへの対抗手段が文化であり、年寄りから文化や慣習、技術を学ぶことが品位を身につけることだったそうです。
「現代人はひとりで生きているつもりになっているが、電線・電話線・ガス管等沢山の線や管につながれた云わばスパゲッティ症候群状態」との一文に、便利快適を追う生活に疑念を持ちつつテクノロジーに依存している我が家、何かあっても生み出せない都会のもろさを痛切に感じました。自動で蓋が開き、立ち上がると自動排水するトイレが増えていますが、色やニオイで健康チェックもできません。スイッチポンで事足りる暮しに、足腰が弱り、しゃがむ事が出来ない人も増えています。使わないと機能を失なう廃用症候群は身体だけでなく、共感も、生身の体験と時間が不可欠で、孤食が進み、人間の共同体の原点にある家族が無くなると、人間らしさを育む場を失うことになると危惧されています。
グローバリズム・経済優先で失ったものはいろいろありますが、自然には依存しているけれど、文明の利器に依存せず自分で生きる力を持ち、助け合う人間本来のあり方を信級で感じました。人間の原点を忘れず、丁寧な暮らしを取り戻し、望ましい未来を創ろうとしている人たちが増えています。
参考図書「人類は何を失いつつあるか」山極寿一・関野吉晴対論 東海教育研究所発行
「退歩のススメ」藤田一照・光岡英稔 晶文社刊
76号「未来を照らしあおう」
今号のBeな人、岩崎靖子さんが仲間と共に立ち上げたハートオブミラクルは「地球上のすべての命が、喜びにあふれて生きていける未来を創りたい」との想いで映画を配給され、自主上映の輪が国内外に広がっています。初配給映画は、山元加津子さん(通称かっこちゃん)のドキュメンタリー映画「1/4の奇跡―本当のことだから」でした。
それは、宇宙に感謝の量を増やしたいとの願いで映画製作を始められた入江冨美子さんの初監督作品で、元特別支援学校教諭だったかっこちゃんの病弱養護学校の生徒であり、親友だった笹田雪絵さんとの約束の映画。雪絵ちゃんは、MS(多発性硬化症)という難病でしたが、ありのままの自分が好き、といつも前を向いておられました。症状が進んだある時、かっこちゃんから難病や障がいに意味があることが科学的に分かったと聞き「そのことを世界中の誰もが知っているようにして」との言葉を残し天に還られました。その約束を果たそうとしている山元さんを撮ったドキュメンタリー映画です。
岩崎靖子さんの初監督作品は同じく山元加津子さんの「宇宙(そら)の約束」。それ以降、人が人と共に生きることで生まれる輝きを撮り続けられています。重篤な脳幹出血で植物状態と言われる状態になった友人・宮ぷーの回復を信じ、支え続けるかっこちゃんと宮ぷーの映画「僕のうしろに道はできる」。例え意識が戻っても機能は戻らないと言われましたが、今は、ご本人の頑張り、かっこちゃんや仲間のサポートに支えられ一人暮しをされています。医療の常識を超えた出来事と言われますが、「治るよ」というかっこちゃんの言葉を信じ、意識がなかった時期から撮影されたお陰で、多くの方たちの希望になっています。
“従業員を日本一幸せにする”事でV字回復させた支配人・柴田秋雄さんの映画「日本一幸せな従業員をつくる!」は、従業員の方々が、取引先やお客様を幸せにし、みんなが幸せになるホテルの様子に、優しさの力を教えられ励まされます。
その後、人は自然の一部であり、他の生きものと共に自然に暮らす事の大切さを伝える映画や、みつばちの絶滅危機を通して、すべての命がつながっている事を描いた「みつばちと地球とわたし」等、様々な分野でいのち深く生きる人達の姿を映像で伝えておられます。
2018kakkoワールドでの眼科・産業医の三宅琢さんのお話に心が震えました。薬や手術では治らない患者さんに寄り添い、視覚障がいとは目が見えない為に欲しい情報を得られない情報障がいで、欲しい情報を自力で得られるようにするのが医療と、患者さんが何に困り、どんなことがしたいか、どうすれば叶うかということに心を尽くされ、iPadやiPhoneを用いたデジタルビジョンケアで生活の質を高めるサポートをされています。
そのひとつ「Be My Eyes」という機能代行のお話に衝撃を受けました。視覚障がいの人とビデオ通話でつながったボランティアの人が、要望に応じ視覚障がいの人々の目となり、賞味期限を読んだり、探しものや、買物のサポートを随時無償でするもので、180以上の言語、100万人を超えるボランティアの人が登録されているテクノロジーと人々の絆を活用した仕組みです。安価な思いがけないサポートアプリも色々ありました。行き過ぎた科学技術を否定したくなるような思いに駆られたりしますが、進化したからこそ生まれている技術。それらは誰もが機能を失ってゆく高齢化社会の心の杖にも、光にもなると思いました。
「創造とは0を1にすること。それだけが人間にしかできない営み」と語られる三宅先生は「障がいを価値とする」働き方革命も起こしておられます。山元加津子さんは、「いのちは備わっている自分の力で回復し良い方に向かう。いろいろ教え合い、学び合いながら自分や自然の生きる力を強くしたい、みんなで命を太くしていこう」と講座も開催されています。
わたしたちは、みんなで一つのいのちを生きています。大切なことをみんなで教え合い、伝えあうことは、喜びあふれる未来への道を照らしあうこと…。
参考図書:「人生はいのちからの贈り物」岩崎靖子著 ㈱トーヨー企画刊
77号「自然のはたらきに添って生きる」レポート
今号のBeな人高田宏臣さんのお話を伺ったのは2018年10月のメガソーラーシンポジウムに参加した折でした。地形の意味を知ること、自然を見る感覚を育て観察することの大切さ、現代土木の限界等々大切な事ばかりでした。樹木の健康、後退する砂浜の理由、崩れない石組みの事等々、高田さんのブログは学ばせて頂くことばかりです。
山地に造られるメガソーラーの最大の問題は、自然本来の地形を、これまでにない規模で根こそぎ削って平らにすることで、自然の地形には意味があり、環境上、防災上の要の地が山頂部、尾根筋や谷筋で、かつては集落の裏山の山頂部に祠を置いて一帯を鎮守の杜として守り、水の湧き出す谷筋には龍神様を祀って、触れない場所を設けてきたそうですが、現代はそうした先人の叡智が忘れ去られ、水害・土砂災害を増幅させているとのこと。
環境の荒廃は、極端な水量変化に現れるとのお話に、よく出かけていた雑木林のことを思いました。古家の前は、ジメジメしていましたが、すぐ横にあったほんとに幅の狭い小さな湿地のような沢に砂防ダムが造られた直後から、みるみる土地が乾き、井戸の水位がぐんと下がり、大きな赤松が枯れてしまいました。小さな砂防ダムでさえこれほどの変化を起こすのですから、メガソーラーやリニアのような大規模工事により引き起こされる変化はどれほどかと、気がかりでなりません。
高田さんは、大地の再生や、森の再生等さまざまな環境再生を手掛けておられ、地形を壊さなければ再生可能で、菌糸と根がネットワークして、土中の空気と水の流れが改善され土の構造ができれば大地は目を覚ますように命を養う豊かな環境に自ら変化してゆくと言われます。手がけられた新潟市の海岸松林再生実験地では、大規模な機械作業も、資材も必要なく、林内にある枝等の有機物や土の置き換え作業で、防虫剤なしに松林は勢いを取り戻したとの文章に、自然本来の働きに添う力を知り希望が湧きました。
植物は地球と太陽をつなぐ環と言われます。地球上の生命すべてに作用し、人は生きる基本のほとんどを植物に負い、食べ物、空気、エネルギーのみならず、薬もほとんどが植物由来です。植物の生態の研究が進み、植物の根の先端は脳のニューロンに似た電気信号を作り、さまざまなデータ処理をしていること、知性があり、助け合って生きていること等々が明らかになっています。
数百万年前、樹木は菌糸の地下ネットワークと力を合わせて生きていく共生関係を結び、細い菌糸が進んだところに植物は根を伸ばして水やミネラル等を吸収し、情報をやり取りして、弱った木や幼木にも根を通して養分を分かち合って生きているそうです。一つかみの森の土の中には、地球上すべての人間より沢山の命が含まれ、ティ-スプーン一杯分の土に含まれる菌糸の長さは1kmを超え、これら全ての生物が作用して樹木にとりなくてはならない土壌を作っていると知り、土の中の世界のすごさとそのつながりを想像すると頭がクラクラします。
菌糸や根が張り巡らされ微生物がいっぱいの健康な大地で植物は育ち、樹は、水を吸い上げ蒸発させて雨を降らせ、大地や海に還ります。大雨の時1本のブナの木が集める水の量は、時に1000Lを超えて根本に水を集めて乾季に備え、森の土壌は大量の雨水を蓄える巨大な貯蔵庫。又、森はポンプの役割を持っており、海岸から内陸まで続いた森は、雲をもたらし雨を降らせますが、海岸の森が消えてゆくと、水分輸送が止まり内陸部の乾燥が進むそうです。大きな森が消えてゆくことの重大さに心がざわめきます。
循環の環の中にあらゆる生き物のいのちが関わりあっています。大いなる循環の中に生かされていることを忘れ、大地に、川に海に分解できないものを流し、経済優先で森を破壊することは自分の首を絞めること。「土が生命体構造そのものである。土の命を無視した民族は早晩、滅亡しています。生きものの集団としても民族が土の凋落と共に、その文明を消失するのは、我々と土の生命が一体だからです」平井孝志先生の言葉が沁みてきます。
参考図書:「樹木たちの知られざる生活-森林管理官が聴いた森の声」
ペーター ヴォールレーベン早川書房
「植物は知性を持っている」NHK出版
ステファノ・マンク-ゾ・アレッサンドラ・ヴィオラ
ブログ「地球守」https://chikyumori.org/
*植物に関する参考動画 スザンヌ・シマード
生態学者スザンヌ・シマードは、カナダの森での30年間に渡る研究で、木々はお互いに会話をしているという仮説を立て検証した結果を語ってくれます。
一見無口な彼らにも独自の言語があり、世界があるのです。