50号「“皆応天命”を願いとして」大和信春さん2012.02


大和信春(やまとのぶはる)さん
はる研究院代表・スーパーシンクタンクマスター
〒742-1502 山口県熊毛郡田布施町土井の内
℡ 0820-52-5581
e-mail yamato@realize.ne.jp
http://hri001.fc2web.com/

“皆応天命”を願いとして


 「活かされる」ということは、とても切実で根本的な願いだと感じています。反対に、活かされないことほど辛くて悲しいことはないと。その思いが全てのものに宿っているような気がして、たとえばメモに使う紙片を探すときも、「無駄のないちょうどいい裏紙」でないと使う気にならなくて、さらに探し続けたりすることがあります。
 自分が活かされようとするのはまだ俗物という見方もありましょうが、私は、例え捨て石のような形に使われるとしても、それで役に立つ限りは活かされたのだと考えるならば、活かされたいという純粋素朴な願いは、素直に肯定し共有していいものだと思っています。 山口県萩市の生まれなので、小学校四年の時に「松陰読本」という教材に接し、その巻頭にある「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」という書を目にしました。それを、一切動揺せず純粋な誠を貫ける人物はまだ誰もいない、という意味に受け取り、その至誠の実践の難しさに妙に納得し、それをやり遂げた吉田松陰先生は何と偉い人かと、感動し尊敬したものでした。以来、正しいことのために命を捨てると考えた時、実行前に欲しくなる猶予日数の長さを恥ずかしく思い、それを縮めることが十代を通して真剣な課題となりました。

 正しい道に殉ずる覚悟を追求した少年期は、後で振り返ると何らかの下地になったのか、三十代半ばの頃に、突然宇宙意志とつながったような、天命が降ってきたような、精神的な衝撃を伴う体験をし、それを境に格段に迷いが減り、人生や世界に関する認識が変わりました。また、純粋な志、理念、天命自覚の絶大な重要性を体感しました。その後表現した人生理念の第一の項目は「万物が天与の役割を全うするために奉仕する。(皆応天命)」となり、人生理念や企業理念探究のお手伝いをすることも、その念願に基づいています。 今の時代は、森信三先生が言われるところの人類前史(戦争をするような未成熟な段階の歴史)の終わりで、文明法則史学の村山節先生が指摘された西洋文明から東西融合型の新東洋文明への節目、そして資本主義的社会体制の転換、と三大終末期にあたり、人類がいよいよ迫られる未曾有の大転換の先行きに貢献する使命が、それぞれにあると思われます。私も自分にできるいくつかのことを進めてきました。

 「和の実学」の研究と著作は、地球を“覇道の星”から“和道の星”へと進化させるべき人類史の節目に関わるものです。開発してきたIST(情報統合技術)は、西洋型論理の枠に収まらない超論理思考の側面を持ち、これから立ち上がる東西融合型の新東洋文明の一角を担うと考えています。資本主義的社会体制の行き詰まりと転換に展望と目標をもたらすために、拙著「公益革命」で描いた公益社会のコンセプトや、欲望経済から理念経済へという捉え方が役立てばと思います。転換の過渡期に必要となる可能性を考え、共同体通貨のシステムも研究開発してきました。日本が国策として推進すべき新産業創出の方法も開発して出番を待っています。
 国内で立地をはかる企業のために、中小零細企業であっても実践でき、特異貢献(固有の役立ち)を実現するための研究体質づくりや、「益源」構築に関する顧問活動も進めてきているところです。国家や自治体、企業が英知ある針路をつかむために、これからは次世代型シンクタンクの活用が重要です。その役割を果たすために、「問題解決学(適動設計)」と「IST」を備え、実理的な意味での最善性追究機能を有するスーパーシンクタンクを準備し、来たるべき大転換期に役立てることを願っています。

51号 「歯と体の不思議な関係」 平岩和子さん 2012.0401


平岩和子 (ひらいわかずこ)さん
西春歯科 副院長/西春歯科咬合医学研究所代表
自然力学療法医 
愛知県北名古屋市鹿田3494 〒481-0004  
℡ 0568-23-9511 /fax 0568-22-9059
URL:http://www.nishiharudc.com

ブログ・魔法のカムラック:http://blog.livedoor.jp/kamurakku2006/

歯と体の不思議な関係


 1977年、当時25歳の私は、南カリフォルニア大学の矯正歯科医ダニエル・ガーライナー博士に師事し、ひどく背骨の曲がった少女が、歯列矯正(歯の咬み合わせ治療)ですっかり治ってしまった実際の症例を体験し、口腔周囲の筋肉が脊柱にまで影響する事実を学びました。「多くの症例から、かみ合わせを治すと全身症状が改善されることは確かです。若い君たちに、このメカニズムの解明を期待する」と言われて以来30年構造医学・機能解剖学の研究に基づく【全身の健康を考えた歯科治療】を行っています。

 10年ほど前、A氏がお友達の紹介で来院されました。数軒診てもらっても何ともないと言われ、痛みの原因が見当たらないが左上の小臼歯の痛みが治まらないとのこと。そこで、“咬み合わせのずれ”による歯髄炎 と診断し、治療をすると、たちどころに痛みがなくなりビックリされました。かみ合わせの不正が身体へ及ぼす影響と、病気について少し話した後、「ところで、他にも慢性的な体の不調がおありではないですか。眼の充血しているのも心配ですが…」とお尋ねすると「実は、何年も前から、激しい頭痛が頻繁に起こり、夜も眠れないほどで、痛み止めや睡眠薬を処方してもらっています。筋肉痛もひどく、高校の頃には膝の皿の手術をしたんです。」とのことでした。
 そこで、独自の【顎の周りの筋肉をリラックスさせるためのマウスピース】を歯型に合わせて作り治療することになりました。【顎の矯正装置】を使いながら、毎週一回チェックと調整の結果、2ヶ月程で頭痛も、睡眠障害もなくなって顔色も大変良くなられました。何年来の痛みと不安から解放されたA氏が、『私が作ってもらったオーダーメイドのマウスピースを汎用化することはできませんか?そうすればこんなに長い間、悩んだり不安になって苦しむ事もなかったと思います。大勢の人が救われるんじゃないですか。』と言って下さったことが印象に残りました。それから3年近い試行錯誤の末、咀嚼筋とおなじ弾性硬さのシリコン素材を見つけ、安全で使いやすい材質と形のマウスピースができました。臨床的なデータ検証の後、2001年【咬むと楽になるカムラック】と名付け、学会発表を機に本格的に生産を始めました。

 医学が充実している筈の日本で、実は原因もわからず困っておられる人がいかに多いことでしょう。病気になる前には必ず頭痛、肩こり、めまい、腰痛、胃腸等の不定愁訴や自立神経失調症などの悪血状態(=未病)があり、この時期を過ぎると、がん、脳障害、心臓病等の成人病になり、手術、薬物療法になります。病気の発生から、死に至る迄の事を考えると、なぜ静脈の変化によって現れる未病のうちに治せないかと思います。咬み合わせの不正により顎がずれると首や肩が凝り、首の血管が圧迫され、脳の血流が悪くなり、脳梗塞・認知症、高血圧の引き金になります。顎のずれを【カムラック】で治すと、脳血管障害、自己免疫疾患、高血圧、顔面神経麻痺など難病と言われ、原因のわからないとされる病気に驚くほどの好結果が得られました。
 今年で12年目。めまい、頭痛、膝の痛み、腕の痺れ等々、長い間原因が分からず重症化した方々を診療するたびに、【未病】のうちに、かみ合わせを正すことで、多くの病気が改善されることを体験して欲しい。カムラックを使って、1日も早く気付いてほしいという思いが強くなっています。多くの皆様に、咬み合わせと全身の、不思議なかかわりについて、知って頂きたいと願っています。

52号 「いのちの極みの世界に降り立って」小林麻里さん 2012.0601


小林麻里(こばやし まり)さん
飯舘村村民/福島在住
e-mail : Tabi-uzura@theia.ocn.ne.jp

元Eco-Branch スタッフ
明石書店より新著出版 
「福島、飯舘 それでも世界は美しい~原発避難の悲しみを生きて」

いのちの極みの世界に降り立って


 新緑に山桜の薄紅色が混じる春のかさねの色に染まった、夢のような飯舘村の春が今年もやってきました。広がる乾いた田んぼに天から降ってきた星のようなたんぽぽがいちめんに咲いて美しいです。我が家の田んぼからはカエルの大合唱が聞こえ、無数のオタマジャクシが生まれ、家の裏の湧水にはサンショウウオの卵がびっしり産みつけられています。
 私は8年前に結婚を機に名古屋から飯舘村に移住し、自然卵養鶏を営んでいた夫の彰夫さんとともに農的暮らしを満喫していました。5年前に彰夫さんががんで急逝してからは、友人に助けてもらいながら、森の中の家で一人暮らしてきました。それは、美しくも厳しい村の自然に守られ、鍛えられ、癒される日々でした。

 彰夫さんの魂が宿る、自分がそこの一部のように感じている我が家に放射能が降り、何一つ変わらないのにそこから出ていかなければならない。私はそのことを全く受け入れることができず、このままでは心が壊れてしまうと思いました。友人たちと自然農の米作りに挑戦していた田んぼがカラカラに乾いて草に覆われているのを見るのは身を切られるように辛く、絶望的な気持ちになってしまったとき、ふと、田んぼに水を入れて生き物たちの楽園にしようと思い立ちました。放射能に汚染された場所ではたして生き物たちは生まれてきてくるかどうか心配だったのですが、カエルもトンボも蛍もゲンゴロウも、みんな、みんな生まれてきてくれて、我が家の田んぼは生き物たちの楽園になりました。
 昨年の夏、私は毎週末、田んぼビオトープに通い、長靴を履いて田んぼの中を歩き回りました。セシウムの数値は10マイクロシーベルト以上あったのですが、そこで逃げもせず、戦いもせず、あきらめもせずいつもと変わらない暮らしを送っている生き物たちに出会っているうちに、放射能への恐怖を全く感じなくなってしまいました。
放射能汚染という極限状態で、なおいっそう輝くいのちの極みの世界に降り立ち、深い救いを感じ、私はこれまで壊れてしまうことなく生きてくることができました。

 原発は、再稼働しなくても大きな地震や津波が来れば安全ではないでしょう。世界中に核は溢れかえっています。それがこの世界の現実の姿なのだと、私は自分が放射能を浴びて今更ながら気づかされ、絶望的な気持ちになりました。けれども、人がいなくなり生き物たちの世界となった飯舘村には、いのち溢れる新しい世界が広がっているようにも感じてきました。 べてるの家の向谷地さんが、以前ソーシャルワーカーの仕事は「絶望することを援助すること」と書いていらっしゃいました。精神を病んだ方たちが、また以前と同じ自分に戻ろうと頑張るほど、悪化しどうにもできなくなる。そんなとき、自分は病気であることを認め絶望する=以前の自分に戻ることをあきらめることによって、新しい自分に出会い、仲間に出会い、生きていくことができるようになると。べてるではそれを「降りていく生き方」とも呼んでいます。私はこの言葉に非常に共感し、これまで苦しみの中にあるとき、逃げないで見つめることで、新しい自分に、仲間に出会い生きてくることができました。

 今、必要とされているのは、この文明が引き起こした放射能汚染という事態を見つめ、絶望することではないでしょうか。そうすることなく、これまでのように経済成長を目指して走り続ければ、更なる破壊がやってくるような気がしてなりません。
とことん、この文明に絶望して、その果てにいのちの極みの世界に降り立つ人たちが増えていけば、この世界はこれ以上の破壊を免れて、新しく生まれ変わる・・・福島で暮らしながらそんなことを想う日々です。

麻里さんとは、7年に渡り名古屋べてる祭りを一緒に開催してきました。べてるの家の「降りていく生き方」「~にも関わらず笑う」といったあり方は多くの人に影響を与えています。麻里さんは、この大変な状況の中で”べてる的”な姿勢にとても助けられたそうです。山元加津子さんが、すべてはいつかのいい日のためにある、と言われることや、どんなことも無駄なことは無かった、ということを実感されたそうです。
出版された本は、現実から目をそらさず、心の奥底に目をむけられたいのちの軌跡が、詩のような透明な文で綴られています。

本のあとがきより抜粋です・・・

現実を見つめ、現実から逃げず
さりとて現実に埋没することなく
もう一つの世界からの問いかけに耳を澄まし
私は私として生きていきたい
言葉を紡ぎ
出会いの奇跡を信じて


一人でも多くの方に読んで頂きたい本です。Eco-Branchでも扱っています。  こちらからどうぞ
◎7月1日(日)出版記念会「いのちを巡る対話」が名古屋で開催されます。

53号「お金のいらない国」を想像してみませんか 長島龍人さん 2012.0815

長島 龍人(ながしま りゅうじん)さん
ryujin@mwa.biglobe.ne.jp(長島龍人)
mamforyou@globe.ocn.ne.jp(お金のいらない国を考える会)
HP:「人間って何だ

「お金のいらない国」を想像してみませんか


 お金って何でしょう?人はお金がなければ生きられないのでしょうか。お金は人間が考えだした道具に過ぎず、自然界に初めからあったわけではありません。道具なら、便利で、みんなが幸せになれるなら使えばいいでしょう。確かにお金は交換の手段としては便利かもしれません。しかし、お金はみんなを幸せにしているでしょうか。世の中の問題は、ほとんどお金が原因なのではないでしょうか。

 私は広告代理店の企画制作部門にもう30年以上勤めていますが、仕事をする上では、本来の業務以外に、見積りを書くなど、お金の仕事にたくさんの時間をとられます。それをとても面倒で負担に思っていた私は、入社して10年ほど経ったある時、ふと思ったのです。お金は食べられるわけでもなく、人の間を回っているだけのもの。ということは、お金など無くなってもみんなが仕事さえすれば社会は成り立つのではないか。
 そこから私の妄想が始まりました。もし、この世からお金がなくなったら……。お金がもらえなかったら、人は仕事をしないだろうか。全部タダだとしたら、人はどんなものを持ち、どんな生活がしたいと思うだろう。お金が無くなったら世の中はどう変わるだろう。社会のいろいろな問題はどうなるだろう。想像はどんどん広がっていきました。そして、私の頭の中にはまさに本来あるべき、理想郷が開けた気がしたのです。
 1993年、私は「お金のいらない国」という小説を書きました。2003年に出版。今では続編も4まで出すことができ、講演会なども頻繫にさせていただくようになりました。

 今の人間社会は、何でもお金中心に考えられてしまいます。お金のために働かねばならない。お金儲けの競争をしなければならない。お金のために新しいものをどんどん作って売らなければならない。その結果、自然は破壊され、資源は底を尽きかけ、致命的な環境破壊を引き起こしました。
 今のままでは近い将来、地球はどうなるかわかりません。手前味噌ですが、「お金のいらない国」を想像することは、今まさに必要なことなのではないかと思います。ただ、実際にお金のいらない国を実現することは容易ではないでしょう。実現できないことは考えても無駄と思われる方もいらっしゃると思います。しかし、想像しなければ何も始まらないし、私は、実現すること以上に、一人ひとりが心の中にお金のいらない国を作ることが大切だと思っています。お金というものの本質に気づき、この世をお金という価値観に振り回されずに生きる人が増えることによって初めて、実現にも近づくのではないでしょうか。

*長島さんは、落語・寸劇・音楽とさまざまなスタイルで「お金のいらない国」を伝えておられます。古くから存じ上げていながら、なかなか伺う機会がありませんでしたがやっと参加しました。クスッと笑えたり、う~ん、と考え込んだりさせられます

54号「小さな町の小さな映画館」を撮影・監督して   森田恵子さん 2012.1101

森田惠子(もりたけいこ)さん
映画監督
〒330-0855 埼玉県さいたま市大宮区上小町504
mail: enak1@abox3.so-net.ne.jp
個人サイト 『春の海 ひねもすのたり のたりかな
  『小さな町の小さな映画館』 オフィシャルサイト

「小さな町の小さな映画館」を撮影・監督して


 2011年1月に、『小さな町の小さな映画館』というドキュメンタリー作品を完成させました。この映画は、人口1万4千の北海道の小さな港町・浦河町にある93年続く小さな映画館「大黒座」を中心に、町の人たちの暮らしや生き方を紹介した作品です。「大黒座」は、見事に町の文化の拠点になっています。そして、町の人たちに必要とされる限り、赤字でもなんとか映画館を続けて行こうと、4代目館主の三上さんご夫妻は考えています。
 「全プログラムを見ている人がいるんですよ」と、紹介されたのが平飼いで養鶏をしている桜井さん。そして、次に紹介されたのが看板屋の馬道さん。馬道さんに紹介されたのがパン屋さんの以西さん・・・と、芋づる式に撮影は進んでいきました。そして、気が付いたのは浦河町の人たちがカメラの前で、とても自然体だということ。このことと、同じ浦河町に精神障碍者とアルコール依存症者の生活拠点「浦河べてるの家」があることは、地下水脈で繋がっているように思えました。 

 浦河との縁は、1995年、「浦河べてるの家」の映像作品に関わったことから始まりました。精神障碍者と呼ばれる人々と、個人的な関心から関わるようになった失語症の皆さん。しばらくは別々だった二つのことが、繋がって見えるようになりました。それは、両方ともコミュニケーションの障碍だということ。そして、無意識のうちにそちらへ歩んでいった自分自身が、コミュニケーションに対して漠然とした不安感を抱えながら、ずっと生きてきたことに気付きました。二つの係わりの中から、学んだことは、曖昧なまま受け入れることと、静かに見守ることの豊かな可能性。結論は急がなくていいし、結論なんてないのかもしれない…。そう思うと肩の力がすっと抜け、生きるのが随分楽になりました。

 私が映像の世界に入ったのは30代の後半。もう一度やってみたい仕事をしてみようと、フリーの映像編集者になりました。そして、間もなく、あるワークショップに参加して、初めての作品『あなたの肩書きはなんですか?』を、撮影、編集しました。友人たちに、ビデオカメラを持って会いに行き「肩書き」を聞いたのです。そして、その答えに衝撃を受けました。カメラがあるだけで、想像もしえなかった友人たちの深い部分に触れることができたのです。それは、とても印象的な経験でした。“カメラ効果”とでも言えるでしょうか。カメラは人を元気にする道具の一つなのです。

 今、2013年春の完成を目指し『旅する映写機』という作品を制作中です。世界共通規格の精密機器・映写機は、とても頑丈で40年も50年も動き続け、それぞれの物語を持っています。そんな映写機物語を訪ね歩き、記録しています。

森田さんは、名古屋で開催していた”べてる祭り”に7回中、6回参加して下さいました。その折メンバーと話されていた時と同じ温かな眼差しを感じる映画でした。

55号「つめたい風につぼみを抱いて」
広田奈津子さん2013.01


広田奈津子(ひろたなつこ)さん
映画監督
映画『カンタ!ティモール』事務局
電話070-5448-4584
メール mahaloaina@gmail.com
サイト www.canta-timor.com

つめたい風につぼみを抱いて

冬至の頃、陰が極まり陽へ向かう大切な節目にこの原稿を書いています。窓の外には妙齢のヒメコブシの樹が立っていて、ふくらみ始めたつぼみをフカフカな毛でくるみ、北風のなか凛と立っています。 

 私は縁あって赤道近くの東ティモールで映画を作りました。山深いこの国は、八百万の神々や妖怪たちがイキイキしているようなところです。もともとは、広大なオランダ領の中にぽつんと残ったポルトガルの植民地。1975年、この国が葡からの独立を宣言した直後、隣国のインドネシア(旧蘭領)が武力で攻め入りました。東ティモールには大きな油田があるのです。岩手県程の大きさのこの国に対して、日・米・豪などをバックにつけた2億人国家のインドネシア。武力の差は明らかです。けれど、結局は軍が撤退しました。東ティモールは人口の3分の1を失いながらも、軍撤退を国際世論に訴え続け、「叶えば奇跡」と囁かれた独立を果たしたのです。

 人々から話しを聞く中で私が感じたのは、人ひとりの強さでした。
 島で会う人はことごとく、身内を亡くしていました。友人になるような同世代も、生死の境をくぐり抜けていました。深いトラウマを癒すのは何世代もかかることです。それでも、体の奥底から来るような穏やかさを彼らから感じました。それは、命がひとつらなりにあるという安心から生まれるのではないかと私は思います。
 彼らはお葬式を40日間もあげ続けるような人たちです。亡くなった人のたましいが健やかに母なる山に昇ってあの世に還れるように、丁寧にお世話をします。死んだら人生終わり、というような直線的な考えでなく、巡る命の中に暮らしが営まれます。
 武器で脅されてもお金で誘惑されても、先祖の亡骸が眠る土地を離れようとしなかった人たち。大きないのちの一部であるという感覚のもと、殺されても殺されても、軍の行いは間違っていると言い続けた人たちの姿は、まるで何百年と生きるひとつの生命体が平和という夢を見続けているようでした。ある若者が軍に言った言葉が印象的です。「僕を殺しても同じこと。(平和を求める)この声はあがり続けるのだから」。一本の花を手折ることはたやすくても、春の訪れる力を止めることは出来ない。それと同じように、彼らの連綿と続く生命力は戦火を生き抜いたのです。

 映画制作は初めての作業で、現地や日本の友人の惜しみない援助に加えて、不思議な偶然に助けられてようやく進むという場面が度々ありました。そんな事が起きると、亡くなった人たちが助けに来ているんじゃないか、次世代の平和を強く強く願って亡くなった人たちの想いが、何かの形で残って働き続けるのではないか、と思うようになりました。強い決意というものは、たった一人でも、たとえ何世代かかってでも、実現に向けて動き始めるのではないかと…。
 耳にするニュースに絶望的な気持ちになることがあります。誰かを傷つけて成り立つ暮らしから抜けきれていない自分に焦ることも。でも、すぐに全ては出来なくても、私は心に絵を描こうと決めました。色とりどりの生きものが一つの星に生きて、それぞれの命が音楽のように響き合って、笑っているイメージ。生きものたちと通じる魔法のことばを取り戻し、助け合える世界。何年かかっても、いつか本当になるのだと信じていようと思うのです。東ティモールの人たちが教えてくれた合い言葉は、ネイネイ・マイベ・ベイベイ。そっと少しずつ・だけど・いつもいつまでも。そっとずっと続けることが大事らしいのです。
 ヒメコブシのつぼみはまだ花の色を隠しています。春に開く淡いピンクを思い描いて、柔らかい気持ちになります。今は冷たい風が吹いていても、描いた夢を手放さないでいようと思うこの頃です。

映画「カンタ!ティモール」を初めて観た時の衝撃は、しばらく言葉にできませんでした。さまざまな事に気づかされます。一人でも多くの方に観て頂きたい、そんな思いでいっぱいです。

56号「自然が正しい」グロッセ・リュックさん 2013.03

グロッセ・リュックさん
ペイザジスト(自然風景式庭園デザイナー)
(有)みどりのゆび取締役設計部長
エコール・グロッセ代表 
埼玉県さいたま市緑区三室677-1 〒336-0911
Tel & Fax. 048-762-3502
mail : midorinoyubi@grosse.co.jp
URL : http://www.grosse.co.jp

自然が正しい


 小さい頃、放課後の私の遊び場は庭でした。母が育てる花や野菜と、父が手入れする生垣に彩られた庭にある大好きなサクランボの木に登って、サクランボをほおばりながら昆虫と遊んだりするうち、直感的に自然に近づいていった、という感じです。
 自然が私にその扉を開いてくれたのは、後にペイザジスト(自然風景式庭園デザイナー)の勉強をしている頃のことです。樹木や植物の世界的なコレクションを誇る50haという広大な植物園のような庭の中に、その学校はありました。寄宿舎生活をしていた私は、毎日のように庭を散歩することができ、一本のレバノンスギの老木に惹かれ、機会あるごとにその木のそばで休むようになりました。そのうち、何となく心の中で語りかける(以心伝心?)ようになっていました。
 芸術史に関する口答試験の日のことです。出題範囲が膨大でとても網羅できず不安な気持ちでいた私は、試験会場に行く前に「私の木」の下に座り、「助けてください」とお願いしました。そして、「もし助けてくれたら、一生自然を守るために全力を尽くします」と誓いました。いよいよ、試験会場に入ると、教官の前のテーブルにそれぞれ出題テーマを書いた10枚の紙が並んでいました。どれを選べばいいんだろう?「私の木」のことを思い、もう一度「助けてください」と頼みました。その日の空は灰色の雲で覆われていたのですが、突然その雲間に切れ目ができ、一条の光が差し込みテーブルの上の紙の一枚を照らすのです。「これしかない!」選んだそれは、まさに得意なテーマのひとつでした!ある種「生の声」を聴いてしまったようなこの体験の後、自然に対する私の見方はもう以前のものではなくなり、その後も色々な体験をする中で、ますます自然のエッセンスへと近づいて行ったような気がします。

 「私の木」への約束もあって、若い頃の私は、自然に対する人間の愚かな行為にしばしば強い怒りを感じていました。ベルギーから日本に初めて来た時の印象は今でも忘れません。成田空港の近くは緑が多かったのですが、東京に近づくにつれ目にする景色は、灰色一色でまるでコンクリートジャングルのように見えました。暮らし始めてからも、建物や道路のために、あるいは公園のためにも、「安易に」伐られてしまう大木の姿に、自分の身を切られるような痛みを覚えるようになり、何が何でも木を守りたい、自然を守りたい、という気持ちがますます強くなり、私は「戦うエコロジスト」になっていました。
 それがある時、この世からいなくなればいいとさえ願っている人たちと同じくらいネガティブな自分に気がついたのです。時間はかかりましたが、「反対・対抗する」より、「創造する」ことに目を向けることが大事だと思えるようになりました。私の場合、自然が与えてくれるものすべてを愛し、尊重し、活かしながら自分の仕事(ペイザジスト&ビオガーデナー)を果たすということです。
 意識が変わったおかげでしょうか。自然は、また新たな地平を私に開いてくれるようになりました。色彩と形とエネルギー、そして数学的法則という驚異と神秘に満ちたいのちの営みの世界そのものです。そこにあるのになかなか気づかないで通り過ぎてしまっているこの世界のことを伝えたい、心と目を向けてほしいという想いがどんどん膨らみ、そんな場としてエコール・グロッセを始めました。


57号「香りとふれあいを通し「ありがとう」のあふれる地域介護へ」みもりひろこさん 2013.06

みもり ひろ子さん
一般社団法人 日本介護アロマ協会 代表理事
アロマスクール アロマスタジオひまわり 代表

〒451-0042 名古屋市西区那古野2-23-21 5階
TEL:052-581-5123
FAX:052-586-0920
Mail: info@jcaa-net.or.jp
HP: http://www.jcaa-net.or.jp/

香りとふれあいを通し「ありがとう」のあふれる地域介護へ


「手をさわってもらってうれしいわ。ありがとね。」――-
デイサービスでのアロマオイルを使った訪問ハンドタッチ。お1人10分足らずですが、戦争、旅行のこと等々沢山お話し下さいます。タッチをする卒業セラピストの皆さんも「自分にこんなことができるなんて嬉しい」と目をキラキラされます。

「この子さえいなければいいのに。在宅介護の大変さなんてわかるはずない。維月と一緒に死のう」1999年そう思いつめていました。始めて授かった長男:維月(いつき)。出産後告げられた「余命3日・重度障害・寝たきり」。希望の誕生から一転、真っ暗闇のトンネルに入ったようでした。同時に、疲弊した介護生活が始まりました。寝たきりでも、人工呼吸器と酸素ボンベの力を借り、強い生命力で「生きる」ことを教えてくれる維月。「歩くことはできません。」の宣告に親としてできることを死に物狂いで探した「脳を活性させるα波音楽」「運動機能と脳の刺激にマッサージ」手足を触るのが朝のスタートでした。
 一年間の宿泊病院付き添いは、看護師・医師・家族と限られた人間関係の中、精神的・肉体的に極限状態でした。「こんな状態の維月くんでかわいそう」担当看護師の言葉をナイフと感じ、私の「障がいへの偏見」から誕生を友達に知らせるのに1年かかり、他人との関わりを拒否し、心を閉ざすクセがついていました。
 以前お土産にもらって楽しんでいたユーカリアロマオイルを、ふと病室でお湯を注いだカップに1滴落とした時の香りは今も鮮明に覚えています。スーッと気持ちが晴れ渡り「がんばって生きてみよう」そう思えました。さらに、「維月くんの部屋はいい匂い」と噂になり看護師さんの話しかけが、閉ざしていた私の心をふわっとやわらかくしてくれました。香りが、コミュニケーションのきっかけをつくり、閉ざした心をほぐしてくれたのです。

 退院し在宅へ。1つ屋根の下で暮らせる幸せ、太陽を見上げる嬉しさの一方、移り住んだ街で友達もなく、人工呼吸器と酸素ボンべの24時間管理、出入りされるヘルパーさん。気の抜けない毎日に「助けてって言っていいんだ。」と思えるようになった頃、次女を授かりましたが、介護と育児で心身共に限界状態でメニエール病に。「私がいなければ、維月は生きていけない…。」初めて介護する側の心身の健康の大切さに気づきました。アロマで気分転換し、周りに手助けを頼む大切さを実体験しました。

 2年8か月生き抜いた維月を見送り、2人の子育てをする中、又頂いたユーカリオイル。香った瞬間、走馬灯のように維月との日々が思い出され涙があふれました。アロマオイルを深く知りたくて約9年前に学び「アロマオイルにも守ってもらったんだ」と納得。「介護者の心身の健康」へのアロマ活用法、ハンドタッチ技術を一人でも多くの方へお伝えする役割は、維月からのプレゼントです。香りとふれ合うコミュニケーションを伝える人を育てています。
人は1人では生きていけません。「そこにいてくれてありがとう」と伝え合うことが素晴らしいのです。くじけそうになったとき、生きることを教えてもらった維月と過ごした日々が私を支えてくれます。アロマを通じ笑顔の輪を拡げてゆきたいと願っています。


58号「泥から咲く蓮のように」渡辺仁子さん 2013.09

渡辺仁子(わたなべじんこ)さん
蓮笑庵 主宰
NPO法人蓮笑庵くらしの学校代表
〒963-4316 福島県田村市船引町芦沢字霜田62
℡/fax (0247)82-2977
e-mail:info@renshoan.jp
URL:http://renshoan.jp/

「泥から咲く蓮のように」


 今年の夏、福島は何事もなかったかのように緑が茂り、画工人渡辺俊(しゅん)明(めい)が、天地に絵を描くように、自ら設計し、庭を造った蓮笑庵前の白蓮、紅蓮も大輪の花を咲かせました。
どんな過酷なでき事も歴史の中の一瞬と言われますが、3.11の洗礼を受けた地で、私達は「考える葦」になりました。エネルギーについて、暮らし方について、平和について、子供達の未来について、皆一生懸命考えています。
 福島は原発事故後、「森も川も汚れた」と言われました。本当に森の力は失われたのだろうか・・・。森を渡る風にいやされ、新緑の芽吹きに感動し、鳥のさえずりや花の色の明るさに希望を抱いた日、不安をそっと横におけば、変わらぬ自然界の恵みがありました。
 起きてしまった厳しい現実の中で幸せを実感するには、見えないものに目をこらし、深く広く見つめる心を育て、霊性を高めていくことが大切に思えます。3年前の、震災から一ヶ月が過ぎた頃、私はふとした事から、今どんな状況にあろうとも、本当は何も心配も不安もない世界にいるのではないか、そんなことを強く思うようになりました。理屈では説明できない感情が、今日まで迷うことなく自分を支え、歩かせてくれる力になりました。

 8年前他界した夫、俊明は暮し方の達人でした。「ぼくたちの手は、土を放し、足は土から遊離してしまい、文明の便利さの中に迷い込んでしまっている。人は頭思考に先行され、美術芸術の類も論理性に片寄ってはいまいか。今ぼくは、頭で絵を描くことはなくなった。思いで描いている。「思う」ということを大事にしたい。草や花や木や石や虫、他の生き物たちに思いを寄せ、足を地に着けて土のぬくもりに触れ、暮らしの中に眼を向けて歩きたい」と語り、職人の技や、美しい工芸品、自然界のものたちを師として、アトリエを「僕の学校」と呼び、日々をていねいに暮しました。
 春 摘み草を篭に入れ、夏は大だらいに金魚を泳がせ、秋 七輪で焼く秋刀魚に舌つづみを打ち、冬 まっかにおきる炭の音を楽しむ。四季の暮らしがそのまま絵になり、言葉になりました。
 「春が好き 夏が好き 秋もいいな 冬も又いいよ」
 「野の花がやさしさの心を教えてくれた。野仏が祈りの心を教えてくれた。」
 「日々ていねいに暮らす」――こんな時代だからこそ、私達ももう一度立ち止まり、深く物事を見つめ、足元からの平和を実践していきたいと思います。
現在、蓮笑庵は、思いを共有する者達が集い、持続可能なモデルとなる新しいコミュニティをめざして歩み始めています。
 四季折々に草花が咲き、鳥や虫や動物がいて仲間がいる「蓮笑庵くらしの学校」で、泥から咲く蓮のように、いつか福島の苦難を昇華していこうと思います。

*震災後、蓮笑庵さんは大熊町等から他県に避難される方の中継地として全館解放されました。一段落ついた頃からはボランティアの方々の宿泊場所として開放してこられました。素晴らしい建物、工芸品や俊明さんの作品の数々に、さぞ皆さん寛がれたことと思います。

59号「日本の田んぼを守る酒蔵」を目指して 仁井田穏彦さん 2013.11

仁井田穏彦(にいだやすひこ)さん
金寳酒造仁井田本家
18代蔵元兼杜氏 〒963-1151
福島県郡山市田村町金沢字高屋敷139番地
℡:024-955-2222
e-mail info@kinpou.co.jp
URL: http://www.kinpou.co.jp/

「日本の田んぼを守る酒蔵」を目指して 


 1711年創業来、郡山で日本酒を造り続けている仁井田本家18代目当主として、また酒造りの親方である杜氏として蔵をお預かりしている私が日々最も大切にしていることは、代々の当主がそうしてきたように「酒は健康に良い飲み物でなければならない」という信条と、この蔵を連綿と受け継いでいくこと。その為に自分は何をすべきか、次の代の人たちに何を残してあげればいいのか、を常に第一に考えながら仕事をすることです。

 16代目の祖父は町長として蔵のある金沢村の自然を守り、蔵の命ともいえる大切な水源を確保してくれました。17代目である父は金沢の田んぼで昭和40年から自然米の栽培を始め、「金寳(きんぽう)自然(しぜん)酒(しゅ)」という蔵の宝物をこの世に誕生させました。
 18代目の私は、次の代に元気で豊かな田んぼをたくさん残したいと思っています。蔵のある金沢には60ヘクタールの田んぼがあります。先ずはこの全てを2025年までに、農薬や化学肥料を一切使わず「土」の力がみなぎる、いつまでもお米を作り続けられる「自然田」にすることが私の夢です。「日本の田んぼを守る酒蔵」を目指し、その夢を実現する為に一粒でも多く蔵で自然米を使いたくて、創業300年を迎えた2011年からすべてのお酒を自然米100%(農薬・化学肥料を一切使わず栽培するお米)、天然水100%の純米酒だけにいたしました。
 そして、もう一つの夢は「自給自足の酒蔵になること」。今、自社田では、酒米以外に「こしひかり」と、もち米の「緑米」を自然栽培で育て、自社畑では小麦に小豆に野菜を自然栽培しています。蔵で行うイベントでは全て自給の原料で「かまどごはん」や「大福」「酒饅頭」に「天然酵母パン」などをスタッフがこしらえお客様に食べて頂いています。いつかは自社山の管理をしながら切り出した間伐材を利用したバイオマス発電や、田んぼの用水路の流れを利用した水力発電により電気も自給する、そんな自然と一体になった蔵になりたいと願っています。

 いつになるかは分かりません。奇しくも創業300年の年に起こった原発事故による風評被害は未だに根強く、つらいことも多々ありますが、幸いなことに蔵のある金沢は放射能汚染がほとんど無く、安心して田んぼで自然米を育てられ、そのお米でお酒や発酵食品を醸すことが出来ます。それを飲んで下さるお客様がいらっしゃる限りきっと大丈夫!
 大分回り道をさせられそうですが、自分の代で実現できなくても19代目・20代目の頃にはきっと実現できると信じて、創業400年を迎える100年後の子孫たちが笑って生きていられるよう、心から酒造りを楽しんでいられるよう、自分の役割をしっかり果たしていきたいと思います。
 次の世代に健康な田んぼを手渡せるように、日本の大切な財産であり、日本人気質の源にもなっている田園風景を守るためにも、「仁井田本家の日本酒を飲んで、日本の田んぼを守ろうじゃないか!」そう言って頂けたら本当に有難いことです。

初めて仁井田本家さんに伺ったのは、東日本大震災の年の8月でした。仁井田本家さんのある界隈はクールスポットでしたが、まだ放射能がもたらすものがどれほどかはっきりしない頃ですので、ご心労はどれほどかと思いましたが、300年祭はできないけれど、400年は子孫が・・・、との言葉に、何百年と風雪に耐え、続いておいでのところの凄さを感じました。今年9月、伺った折には、自然栽培の田んぼの面積が増し、お酒が金賞を受賞される等着実に前に進んでおいでのご様子を伺い嬉しかったです。

60号「みんな言葉を持っていた」柴田保之さん 2014.01


柴田保之(しばたやすゆき)さん

國學院大學人間開発学部初等教育学科教授
国学院大学たまプラーザキャンパス
〒225-0003 神奈川県横浜市青葉区新石川3-22-1
e-mail:yshibata@kokugakuin.ac.jp 
URL:http://www2.kokugakuin.ac.jp/~yshibata/

みんな言葉を持っていた


 今、私は50代の真ん中にいますが、30年余り前に始めた障害の重い子どもとの関わり合いが、考えてもみなかった地点にたどりついています。
 20代の前半から、障害がきわめて重いために言葉を獲得したばかりの段階や、言葉以前の段階にあると思われてきた子どもたちにも豊かな感性の世界があり、その子の納得した運動の世界があると考え、様々な手作りの教材を用いた関わり合いを進めて、その子を大切に育てようとするまなざしをもった人たちと、かすかなしぐさ一つの中にある輝きを、ともに喜び合いながら深めていくことができました。

 私が、それまでの常識に反して、重い発達の遅れがあるとされる子どもたちにも言葉があることに気づき始めたのは、40歳を目前にした1997年のことでした。体がうまく動かないために言葉を表現できない障害の重い子どもの中に、例外的と思われた言葉を理解している子どもたちの言葉の表出の方法をパソコンとスイッチを使って探り始めていったのです。すると、適切なスイッチとソフトを用いれば表出が可能になり、しだいに対象も広がって、これは例外なのではなく、みんな言葉をもっていると考えるほうが正しいのではないかと思えるようになったのです。2004年のことでした。

 そして、50歳になる2008年になって、簡単な身の周りの動作はでき、簡単な単語などを発することのできる人たちも、スイッチとパソコンを使えば気持ちが聞き取れることが明らかとなったのです。また、かなり流暢に話せても常識的には知的な障害を感じさせてしまう人も、それら機器を用いればきちんとした文章を綴ることができることも分かってきました。
 私は、知的障害というのは認識の発達の遅れという考えにずっと染まってきました。しかし、言葉がうまく表現できない理由として本人自身があげたのは、体が勝手に動いてしまうということであり、言葉が勝手に出る、話そうとすると頭が真っ白になるなど、それまで私が想像すらしたことのない理由でした。知的障害とは、発達の遅れではなく、豊かな内面を外部に表出するプロセスのどこかに滞りが生まれており、それが妨げられているということ、私たちの目に映る行動は必ずしもその人の思いをすべて反映しているわけではなく、その人が表現した言葉もその人の意思を十分に映し出したものではないということになるのです。大変不思議であり、しかも幸いなことに私たちの援助方法が、その滞りをうまくすりぬけるようにして、豊かな内面の世界の表出を可能にしたのです。この頃から、スイッチ操作を手で代行し、パソコンの音声を口で代行することにより、機器がなくても言葉の表出を援助するやり方を新たに見つけることができたので、より手軽に援助ができるようになりました。

 知的なレベルが何歳などという言い方がまったく誤りであることが明らかであるだけでなく、あまりにも差別的なこの考えはすぐにでも改めなければならないということになります。言葉よりももっと大切なものがあるということを見すえられるまなざしがなければ、言葉の問題にきちんと向き合うことはできないのではないかと思っています。 

 そして、最近、病気や事故の後遺症で意識障害になったと言われる方々との新たな出会いから大変大きな発見がありました。それは、障害を受けるまでに無数に文字を書いてきた経験などが関係していると思うのですが、手を添えた筆談の方法を、その場でご家族の方にお伝えできることがあり、意識的に取り組んでみると、次々とご家族が援助による筆談でコミュニケーションが可能になることが起こったのです。

 今、もっとも気がかりなことは、こういった事実がまだ、ほとんど世の中には受け入れられておらず、なかなか理解されるのが難しいということです。この事実を世の中が受け入れる日を、座して待つつもりはありませんが、その日を心から待ち望んでいるところです。

山元加津子さんの白雪姫プロジェクトにも思いを書かれています。白雪姫プロジェクトには、どんな人も思いがあり。それを伝える方法があることがいろいろ書かれています。それを読み、長年意識障害だからと、コミュニケーションをあきらめておられた人達が、励まされ、意思を知ろうと試み、コミュニケーションがとれるようになられた方が増えています。

61号「七転びハチ起き」船橋康貴さん 2014.04

船橋 康貴(ふなはし やすき)さん
一般社団法人ハニーファーム代表
e-mail: info@honeyfarm.jp
URL: honeyfarm.jp/


七転びハチ起き

小学校の授業中は、窓の外の雲の形の変化を見て、いろいろなことを空想していました。ですから、通知表はオール1! オール5という話しは時々聞きますが、オール1は極めて珍しく、いつか『オール1でも社長になれる』という本でも出そうかと思っています。
 自分で言うのもなんですが、頭が悪かった訳ではありません。家庭が貧しく、両親が共働きだったため、なるべく遅い時間まで友達の家で過ごすというのが、小学生の頃の私のテーマでした。毎日同じ友達の家にお邪魔したのでは、ご迷惑だと思い1週間7人の友達の家に遊びに行くという、たくましい営業力をその時すでに身につけていました。この頃、私でも学校で一番という評価をもらえたことがあります。それは「学校で一番面白い」でした。現在53歳になりますが、どうやら私はこの頃に身につけた「営業力(コミュニケーション能力)」と「面白いを考える」この2つの能力だけで、生きてきたように思います。社会としっかり関係しながら、陽気に楽しく仕事とプライベートの境目がない生き方をする。これこそが本来の人としての幸せだとつくづく実感しています。これを自然体でやっている訳ですから、なんと幸せなことでしょうか。

 私が人生において多くを学ぶことになったポイントが3つあります。1番目は、物心ついた頃から家庭が極度に貧しくあったこと。2番目は、30歳代に5歳で愛娘が他界したこと。3番目に、40歳後半で心身ともにへばり、ドクターストップがかかったことです。今は、ミツバチを東山動植物園・モリコロパーク・豊田市の里山で飼い、経済のためにハチミツを採り、子ども達のために「ハチ育」を行い、非行少年や小児病棟の子ども達に出張ミツバチ教室などの社会貢献を行っています。
 ミツバチには不思議な力があります。人間本来の能力「五感」を深く、高く、広く、開いてくれる力です。ストレスや心のモヤモヤも、ミツバチは吸い取ってくれます。なぜ、そんなことが出来るのでしょうか?それは、ミツバチが神様の化身だからです。人間・あらゆる生き物は、ミツバチの受粉による実りによって生かされています。これはまさに、神様のお仕事で、そのお手伝いをすることに夢中です。このような表現が皆さんの心に、誤解無く響くことを願っています。
 私は、目に見えるものと見えないものがワンセットだと確信しています。特に目に見えないものの大切さを理解し、分かりやすく腑に落ちるようにお伝えしたいという想いがあり、長年勉強して3年前にお寺で受戒し、今も修行を続けています。世の中の全てを分け隔てなく、幸せの定規を“利己的経済定規”から“自然を尊む地球定規”に持ち換えることを命の限りお伝えしていきます。
 ミツバチが世界中で減少し、このままでは2035年にミツバチが絶滅すると言われています。アインシュタインが100年前に「ミツバチがこの世から絶滅しれば人類は4年以内に滅亡する」と言っているように、人間も大きなダメージを回避せずにいるのは難しいようです。ただ、このダメージの被害者は、人間だけではなく多くの生き物・生命です。加害者は、私たち人間です。最悪なシナリオに進まないで子ども達の未来に希望と笑顔溢れる社会を手渡していくために、私やハニーファームの大切な役目があることを腹に据え、残りの人生の一日一日を生ききっていこうと思います。ミツバチ観察会やボランティア活動などに皆さんも是非参加してみてください。


62号「竹ガーゼに祈りをこめて」相田雅彦さん 2014.07


相田雅彦(そうだまさひこ)さん
株式会社ナファ生活研究所 代表取締役
一般社団法人空飛ぶ竹ガーゼ社 代表理事
〒151-0051 東京都渋谷区千駄ヶ谷3-37-3
℡ 03-5412-7661 fax 03-5412-7662
e-mail:masa.soda@nafa-take.com
㈱ナファ生活研究所
http://www.nafa-take.com
一般社団法人空飛ぶ竹ガーゼ社
http://flying-bamboogauze.com/index.html

竹ガーゼに祈りを込めて

「もう少しで、本来の願いのスタート地点に立てます」――竹布開発者相田さんの一言に、心を揺さぶられました。
 1999年に開発を開始、2年かけて生みだした竹繊維で、合成繊維のボディタオルで肌を傷めた人のために完成したタオルをあれこれ試すうち気付いた抗菌力は、MRSAの菌がゼロになるという驚くべきもの。精錬し繊維になっても菌を死滅させる力が残っているすごさに「誰が、私を通して、何のために竹繊維を開発させたのか」果たすべき役割を長い時間考え続けて、ふっと頭に浮かんだ言葉。「人が最も痛み苦しむその時に、そっと傷に寄り添い、ただ快癒を祈る1枚のガーゼ」傷ついた皮膚を竹ガーゼで覆って菌から守りたい…。
ガーゼ作りがミッションとなった瞬間です。
 紛争地等世界の医療現場に届ける為に必要な大量の原料“慈竹”は中国西南地区で、地元政府の応援を受けて育ち始め、2年後から使用可能だそうです。それまでなかったものを生み出し、常に本質に基づき進化し続けられる原動力を伺いたくてインタビューさせて頂きました。

―どんな子供時代をお過ごしでしたか?
 山まで3分、海まで3分という自然豊かな長崎県大村の地で、思う存分好きなことをしました。ある時、公園の丘でふと鳥のように飛べる気持ちが湧き、全速で走って飛びました。一瞬浮き、落ちて木に引っ掛かりましたが、その時の迷いなく空を飛んだ思いは今も続いています。ロダンの本をぼろぼろになるほど愛読した中学時代。
 「何のために生きているのか」問い続けた学生時代。追い詰め過ぎて肺炎で入院、何かがパカンと割れて何もできなくなった時に誘われて参加した絵画教室で、井の頭公園の自然を前に全ての本質に向かい息が詰まりそうになりながら描き続けるうち大村の海と空と雲の色が現れ、この明るさが自分の基礎を創っていると気づきました。
 23歳の自己崩壊体験以降、57歳の今に至るまで振り返ると一筋の道を歩いてきた自分がいます。

―ものづくりに入られたきっかけは?
 大学卒業後、フリーの美術記者として取材を続ける中、若造に何が書けるかと自戒し、文章の世界を離れ、30歳、うそのつけないものづくりの世界に進みました。
 ものに込めた思いは使われる人に通じます。2001年から思い続けたガーゼ作りですが、かつて300社あったガーゼ工場がほぼ消え、竹糸で織って下さる工場と出会えたのは2010年秋でした。織り上ったガーゼのデンプン糊は阿蘇のエネルギーの高い地下水で洗い、扱う人の純粋な思いと伴に封入してお届けしたいとの願いが叶って、ある廃校を使わせて頂けることになり、2010年暮れから知多半島の工場で国産ガーゼを織り始めました。

―目指される道は?
 ご縁があり2011年正月から丹生都比売神社で御祈祷頂いた竹布ガーゼを「祓(はらい)布(ぬの)」と命名頂き、お頒ち頂くようになりました。その年3月10日に仙台でお話会があり、翌朝深い雪が見たくて移動した山形で東日本大震災震災にあいました。被災地に竹布製品をお送りしたご縁で、避難所の医師に依頼され床づれ予防に国産初の竹ガーゼをお届けできました。
 ガーゼの根本にあるもの、それは「祈り」です。世界平和と人類の福祉に貢献することを目的とし、身体に働きかける竹ガーゼと、心を育てる祓布の普及のため一般社団法人空飛ぶ竹ガーゼ社もスタートしました。

― そう語られる相田さんの眼差しは、全速力で走って飛んだ少年の目でした。「正しいことをしているか、正しい方向を向いているか自問し、大丈夫と思えれば不安は無くなります」と語られる相田さんは、子供の頃の空飛ぶ思いのまま、前を向いて進んでおられます。

63号「支援でもなく ビジネスでもなく・・・」廣中桃子さん 2014.10

廣中桃子(ひろなかももこ)さん
合同会社nimai-nitai(ニマイ・ニタイ)代表
e-mail:info@nimai-nitai.jp
URL: http://nimai-nitai.jp

支援でもビジネスでもなく

 2001年、自分のやりたいことが見つからず悶々とした日々を過ごしていた高校生時代。アフガニスタン紛争の真っ只中で、テレビで連日放送される“悪党政権ターリバーン”。友人に誘われ、アフガニスタンから日本に逃れてきた難民の方の講演に参加しました。さぞかし大変な目にあったのだろうと思っていましたが、「日本はターリバーン政権よりひどい。日本に逃げてくるんじゃなかった」と悲痛な表情で嘆く男性。ショックと同時に、どうしてこのようなことが起こってしまうのか、初めて自分とは違う立場の人を想い、怒りと悲しみで震えたのを覚えています。
 その頃から、「自分の力ではどうすることもできずに困っている人のために、働きたい」と想い、たどり着いたのは、最も貧しい人のために人生を捧げたマザー・テレサが生きたインドでした。2007年、インドを1ヶ月回り、立ち寄ったインド最貧困州であるビハール州に位置するブッダガヤで貧しさの中でも、たくましく生きる人々の姿と、子どもたちの輝く眼差しに強く心を打たれました。親を亡くし孤児院に預けられた子どもたちに何気なく将来の夢を聞いた時、「僕たちには夢を選べないんだよ」という返事が返ってきました。想いもよらなかった返事に、とまどいながら、私は、彼らが夢を持って自分の生きる道を選べる社会を目指したいと強く思いました。

 それから毎年インドへ短期間ボランティアに行きながら、長期で滞在できる可能性を探っていました。ボランティアでは自分が生活していけない。ブッダガヤの人たちと仕事ができるような仕組みをつくれば長期滞在しながら村の問題と向き合えると考え、5年後の2012年、合同会社nimai-nitai(ニマイ−ニタイ)を立ち上げました。素材である布は、インドの職人が作り出す美しい木版染めブロックプリントや、手紬手織りのカディなどインドの伝統的な布を探し、スジャータ村の女性たちに裁縫の技術指導をし、現地に半年間滞在しながら日本に販売するための品物をつくるべく、一緒に奮闘しながらのものづくりが始まりました。初年度は、縫製不良など日本の品質基準に見合うものが非常に少なく、ほぼ何もかも上手くいきませんでした。それでも、この村で作ることは他にはない大きな魅力があります。「誰が作ったものか」「完成までに起こった珍(?!)事件」品物ひとつひとつが持つ出来上がるまでの壮大な背景を展示会などでお話しています。

 インドで仕事をするようになり3年、今はインドという国を見る目が変わってきたように思います。先進国とインドの生活基準の違いなどから、あまりにも大きな金銭感覚の違いがあるにも関わらず与えるだけの支援は、現地の人々の金銭感覚を麻痺させ、寄付や援助に頼らせます。
自分の知らなかった世界を知ることで嫉妬を生み出し、結果的に相手を怠惰にさせてしまうだけだったのではないかという現実を見た時、「なぜ支援してくれないのか?」と、迫られた時の違和感、先進国の平和ぼけしたフィルターがかかった目で見た”貧しい人”、”困っている人”というのは、実際の彼らの現実とは違うのではないかと、今ははっきり思います。
 与えるだけの支援はだめ。”かわいそう”ではなく、仕事として対等な関係を築くこと、健全な組織や関係を築いていくこと。2014年からは、「えんぴつプロジェクト」をスタートし、ほぼ全ての商品の売上げの3%を、アウトカーストの村の子どもたちに教育を提供している学校へ寄付する仕組みをつくりました。 “Small is beautiful”私はこの言葉が好きです。小さくても、私にできることを続けていく。支援でもなくビジネスでもなく、家族のように一緒に生きたい。モノづくりを通して、思いをつなげ、ひとりひとり ひとつひとつが大切にされる思いやりのある社会づくりを目指していきます。

64号「人の喜びを喜びとして」鈴木勲さん2015.01


鈴木 勲(すずきいさお)さん
株式会社ら・さんたランド 代表
〒960-8203
福島県福島市本内字南下釜2-6
TEL 024-525-2690
FAX 024-535-1714
URL: http://lasanta.jp
E-MAIL info@lasanta.jp
Fb https://www.facebook.com/lasantaLAND

人の喜びを喜びとして


 私の家は、「家の仕事(脱穀)が忙しいから早く帰って来い。」と小学校に電話がかかってくるくらい貧乏暇なしの家でした。今思えば、春のふきのとう・竹の子・ワラビに始まり、一年中自然の恵みのある豊かな環境でしたが、小さい頃は、なんで、家ではハンバーグやソーセージがでてこないんだろうと思っていました。手伝いをすると誉められるのが嬉しくて、喜んでするようになり、近所や親戚の家で、養蚕の手伝いをした時に一服に出してもらえるパンが私にとって何よりものご馳走でした。

 工業高校卒業後、就職した鋳物工場での先輩の言葉「仕事は次の工程の人に迷惑をかけるな、喜ぶことをしろ!」が、今の仕事に対する原点になっています。1993年30歳の時、車にパンや食品を積んで、企業や個人宅を回る移動販売の仕事を始めました。みんな違った環境の中生活しています。誰一人として同じ環境の人はいません。働き方もみんな違っていい。誰でも事業を起こし、経営を始めることができる。自分でアイディアを出し、考え行動することで、お客様に感謝され、その感謝の料がお金として返ってくる。そんな、ひとり一人が個人事業主で働ける新しい形の会社、パンの宅配ら・さんたランドです。
 創業当初、友人・知人からは、みすぼらしい大変な仕事だと思われたようで、「そんなに大変なら100万円ぐらい貸してあげるよ」と言ってくれる友人もいましたが、お客様に喜ばれ、接客と提案の次第で、ご家族やご近所の方々へも広がり、沢山の人と接するので人間的にも成長できる、やりがいのある仕事だと誇りを持っています。自宅に居ながら物が買える便利な世の中ですが、人と人とがふれあう場が少なくなった分、相手を思いやる心、結の精神などが欠けてしまったようにも感じています。つながりを大切にした販売、楽しんで頂ける店づくり(車内)、ワクワクして買い物をし、笑顔になって帰って頂ける真心の接客。創業から大切にしてきたのは「家に来てくれることを心待ちにしてもらえるサンタクロースのようなスタッフ」の育成です。

 現在は、個人事業主と社員が半々ですが、ら・さんたアントレプレナー集団(起業家集団)の考えを活かして事業を展開しています。「連帯すれば自立する」思いやりや助け合いの心、励ましあい支え合う心が、自分で考え行動する自立した人財を育てると考え日々取り組んでいます。今では全国からご参加頂けるようになった年2回開催する全体ミーティング(経営計画発表会)のきっかけは、頑張っている人を表彰してあげたい! 売上だけの表彰ではなく、お客様や仲間のために頑張っている人、自分自身の成長の為に頑張っている人も、表彰してあげたい。更に、取引メーカーさんにも参加して頂けば、互いを理解し、より良い提案や販売ができ、共に成長できると考えたからです。
 みんな違っていいのですが、方向を見失ったり、自分さえよければと思ったり、自立と自分勝手を履き違える恐れがあります。理念を実現する為の表彰で、理念と自分の仕事をより深く理解し、自信と誇りを持ち、社長と社員、個人事業主、パートナー企業様とも場を共有し、次の目標を明確にして互いに和の支援関係ができてきます。
 3.11東日本大震災は、様々なことを気づかせてくれました。当たり前だと思っていたことが全部「ありがとう」だったということ。草木が生えている。お日様がある。お月様がある。もっと地球を、自然を大切に、もっと心を、人と人とのつながりを大切に。自分達に出来るところから始めていきます。お届けしたいのは、“健康と幸せ”、願いは“笑顔いっぱいの家族”。これからも人と人との良縁づくりのお手伝いをして参ります。

65号「“看取り士”への道」柴田久美子さん 2015.04

柴田久美子(しばた くみこ)さん
一般社団法人日本看取り士会 会長
一般社団法人 在宅ホスピス なごみの里 代表理事
  〒701-1154 岡山県岡山市北区田益582
  TEL/FAX 086-728-5772
kumiko.shibata@nagominosato.org
  Twitter: @ShibataKumiko
http://nagominosato.org/

"看取り士”への道


 私は出雲大社の氏子として生まれましたが、大社さまの教えを大切に守って暮らす親の敷いたレールに反発して飛び出し、大阪のYMCAに入学、その後、日本マクドナルド㈱に秘書として入社、16年間働きました。フランチャイズ店のオーナーとして最優秀賞を頂いたこともありましたが、すべてマニュアル化された仕事に物足りなさを感じ、平成元年に独立しました。ですが、会社の看板を失った私は東京・福岡で始めたお店で失敗してしまいます。眠れない夜を過ごしていたある夜のこと、大宇宙の意思ともいうべき、こんな言葉が聞こえてきたのです。「愛という二文字が生きる意味だ!」
  翌日には店を閉じ、ためらうことなく介護の世界に飛び込みました。それからの毎日は感動の連続でした。ただ生きること、あるがままの存在そのものが素晴らしいということを幸(高)齢者の方々から身を持って教えて頂いたのです。
 働き続ける中で、現代医療における終末期の矛盾とむなしさを痛感しましたが、不思議なご縁で、在宅死亡率75%だった病院のない離島に移住、“看取り士”としての人生がスタートしました。島に看取りの家を立ち上げ、多くの方々を自然死で抱きしめて看取りました。
 光栄なことに、旅立たれる間際のお年寄りを抱きしめると、私の心と体がふわっと軽くなるのを感じます。そして、光という表現しかないのですが、「光と光が一つになって溶け合ってしまう瞬間」を味わわせて頂くことがあります。この瞬間を瀬戸内寂聴さんは「人が死ぬと、その瞬間何かがエネルギーに変わり、その熱量は、25メートルプールの529杯分の水を瞬時に沸騰させる」と話されます。

 人は、産まれた時、両親から身体、良い心と魂をもらってきます。抱きしめて看取る数々の実践の中で、決して目には見えないのですが、私は魂の存在を感じられるようになりました。肉体が亡くなる時、良い心と魂は看取る人の良い心と魂に重なります。だからこそ、最期の瞬間だけでも大切な方のそばに寄り添い、看取る必要があるのです。

 医者が言う「ご臨終です」の言葉で、命が終わりと思われる方が多いと思いますが、臨終とは「臨命終時 命の終わりの時に臨む」と書きます。旅立たれた方はまだそこにいて、そこから始まる家族や友人へ命が引き継がれる臨終からの時間としっかり向き合い、身体の温もりをその手に移し、冷たくなるまでそばにいて、その冷たさを受け取る。それを私達はグリーフケアと呼んでいます。看取りは「命のバトンを受け取る」という尊い場面に立ち会える瞬間です。私たちは大切な一人として生まれ、丁寧な看取りによって命が次の世代に受け継がれていくのです。
  「人生のたとえ99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものにかわる。」マザーテレサのこんな言葉に導かれています。
 2025年、団塊の世代が後期高齢者となり毎年の死亡者数は推定150万人台、厚労省は47万人に死に場所がないと発表しています。そんな時代を前に、活動拠点を岡山県に移し、自宅で、または病院で幸せな最期を望まれる方々のお手伝いをさせて頂いています。

 出産に助産師がいるように、死ぬ時も誰かに手助けして欲しいと思われる方々の想いに応えて、皆様に幸せな最期を手渡したいと、現在全国55名の看取り士と、それを支える無償ボランティア91支部のエンゼルチームが活動を続けています。
 病院から家に帰りたいと言われたら、また看取ること、看取られることに不安を感じたら、ぜひ私たち「看取り士」をお使いください。

66号「幼少期の農的体験がもたらしたもの」飯尾裕光さん2015.07

飯尾裕光(いいおひろみつ)さん
株式会社りんねしゃ
INUUNIQ Village代表/
公益社団法人全国愛農会理事
〒496-0008 津島市宇治町天王前80-2
連絡先 ℡0567-24-6580
e-mail:hiro@rinnesha.com
URL: http://www.rinnesha.com/

幼少期の農的体験がもたらしたもの


 私は、愛知県生まれの40歳。1974年頃から始まった安心・安全な食べ物を共同購入する市民運動を通して父が創業した自然食等の流通販売会社である「株式会社りんねしゃ」の2代目。北海道支店で、自社製品『菊花せんこう』の原料、除虫菊を栽培する循環型農場の管理が現在の主な担当である。
 一方で、個人的に2006年に立ち上げたオーガニックカフェを津島市に移転しINUUNIQ(イニュイック) VILLAGE(ヴィレッジ)という名称で「都市近郊型農的暮らしの実践」をテーマにした場作りを行ってもいる。アースデイ名古屋実行委員会に関わり、妻と共に甚目寺観音や東別院の手作り朝市、地域おこし朝市なども主催しつつ、三重大学院生物資源学部博士課程に在学中の学生であり、公益社団法人全国愛農会理事でもある。

 「幼・少年期に農的な自給自足の暮らしを原体験することは、人間教育においてとても重要なこと」という教育方針の父親。母は、子育てには自然教育が最適という考えで実践の為ならば家族別々の暮らしさえ厭わないほど強い思いを持ち、祖母と父、そして姉二人を残し、僕から下の兄弟4人は、原始的な自給自足の田舎暮らしに明け暮れることになり、父はその生活を支えるための仕送りという役割分担になった。その暮らしは【自然豊かな穏やかな農的暮らし】程度で済まない【原始的な自給自足】まで突き詰めるものだった。結果、長男の僕が、【原始的な農労働】の実践にはまり込んでしまったようだ。幼少期から、電気や水道、ガスもない、かやぶき屋根のあばら家での、学校に行かない原野暮らしで、農地開墾、田畑管理、伝統的食加工まで、一貫して【自分でやってみる精神】を熟成させてきた。

 両親は【社会問題に関心を持ち、その解決に関わる】運動家体質も持ち、僕たちは幼少期から、天然せっけん運動、食品公害勉強会、反原発、環境保全、人権・平和活動など、あげればきりがない市民運動に接してきて、活動を持続する最良な方法は、問題提起し続けられる事業を始め、ちゃんと収益を上げて維持することだと理解できるようになった。特殊な環境で育ちながら浮世離れせずに社会活動を続けられているのは、社会の一員として役割を果たすという責任感も同時に学んでいたからだと、この年齢になって理解できるようになった。
 弊社の主力商品である「菊花せんこう」は、生物の多様性や、自然の大切さ、化学合成品や化学薬品を必要としない社会を取り戻すというメッセージを込めたうえで経済的自立を目指しているところに面白味があると思う。経済効率優先ではなく、【自然の制約の中で自分達がどう暮らすのか】が基本である。
幼少期の農的原体験が僕にもたらしたものは何だったのかと、考えさせられる機会が増え、分かってきたことがある。
 ① 幼少期の農的原体験と原野の暮らしリズムは、過剰社会に引きずられない体内制御アンテナを埋め込む。
 ② そのアンテナは、責任ある大人になればなるほど敏感に反応し、行くべき方向を指し示してくれる。
僕に埋められたそのアンテナは、見事に大切なことを受信しているし、最近はその電波を発信できるようにもなってきた。夏の夜を快適に過ごす「菊花せんこう」の煙に親しんで、その電波を感じて頂ければ幸いである。


67号「普通の人が普通の家に普通に住むことができるように」中村武司さん2015.11


中村武司(なかむらたけし)さん
㈲工作舎中村建築 代表
〒464-0852 名古屋市千種区青柳町7-14
電話:052-741-3088 
Fax:052-745-4855
mail:kurasuke@nifty.com

URL:http://kino-ie.net/tsukurite/nakamuratakeshi.html

普通の人が普通の家に普通に住むことができるように

 今から10年前、環境をテーマにした「愛・地球博」が私の住む愛知県で催され、スタジオジブリが「サツキとメイの家」をパビリオンとして、映画「となりのトトロ」で描いた昭和30年ごろの舞台を再現しました。私は縁あってこの家の建築を任されたのですが、始めの打ち合わせの時「見世物としてのパビリオンならそういった業者にお願いしたらどうですか?」という私の問いに対し、プロジェクト統括者の宮崎吾朗さんからは「映画のセットではなく当時建てられていた本物の家を」との要望で、「それならやりましょう」と始まりました。
 大工の3代目として生まれた私は、父親の下で夜間大学に通いながら修業する中、昭和時代の豊かな古い住宅の仕事に携わりました。中卒で叩き上げの父親とは意見の相違でけんかもしましたが、古くからのお付き合いのお施主さんが多く、厚い信頼関係で家に関する細々としたこと全てを任されている姿勢を学びました。世代を超えて大工が住まい手とともに古い家を守り続けていくという図式が崩れつつある現在、住まいに寄り添うことこそが大工の職能だと思い日々仕事をしています。
 サツキとメイの家は昭和初期に、関東近郊に建てられた和洋折衷の家です。杉やヒノキの日本の木材を使い、壁は竹小舞の下地に土を塗って漆喰で仕上げ、屋根には土を練って焼きしめた燻し瓦が載り、稲藁と藺草で作られた畳を各部屋に敷いてあります。畳の間と庭の間には木製ガラス建具が続く長い縁側があり内外をつなぐ緩衝空間となっています。そういった昭和の時代の普通の家が造れなくなる時代が来るのです。
 経済産業省と国土交通省が次世代省エネ基準を進める中で「改正省エネ法」が2020年をめどに住宅まで規制をしようと準備が進められています。「家庭内エネルギーの外部への損失が少ない家をつくりましょう」という大目標の下、高気密高断熱型で開口部の小さな家が標準とされ、義務化されようとしています。その結果「サツキとメイの家」のような木と土の家が建てられなくなるのです。

 本来「人が住む」ということは基本的人権であると思います。昔から普通にあるような開放的な家に住み、冬は火鉢と炬燵、夏は打ち水をして浴衣を着て団扇であおぐといった生活を求める人たちもまだまだ多くいると思います。4年前の震災後、多くの人たちから、1980年代の生活に戻しエネルギー消費を押さえてはという声を聞きます。30年たって確かに便利に快適になったのかもしれませんが、電気エネルギーの消費とともに多くの大切なものを捨ててきたように思えて仕方ありません。
 日本人の住まい方の根幹が揺るぎかねない現在、問い返してみる時期なのだと思います。その場しのぎの政策によって何百年もの間に培ってきた住まい方を変えられてしまってよいのでしょうか。危機感を覚え、スタジオジブリの鈴木プロデューサーに相談、FMラジオ「ジブリ汗まみれ」での対談や、ジブリ月刊誌「熱風」8月号で「サツキとメイの家の10年」を特集して頂きました。11月号からは木と土の家の材料産地や職人たちの現状を伝える連載も予定しています。また「伝統構法をユネスコ無形文化遺産に!」(http://dentoh-isan.jp/)という活動も始まりました。日本文化の根幹ともいえる木造建築技術を次の時代につなげていくことが私たちの役目だと思っています。


68号「いのちの流れ」から託されたもの 稲葉俊郎さん2016.02


稲葉俊郎(いなばとしろう)さん
東京大学医学部附属病院 循環器内科 助教
〒113-8655 東京都文京区本郷7-3-1 
TEL 03-3815-5411(代表)
   (院内PHS 37149)
Mail: inainaba@sannet.ne.jp
ブログ:「吾」http://blog.goo.ne.jp/usmle1789

「いのちの流れ」から託されたもの 


 自分は医師として、日々ひとの体に接しています。そして気付かされることがあります。それは、体や心を深いところで支えている調和の力の存在です。愛やいのちと言ってもいいでしょう。私たちは一瞬一瞬生き続けていますが、その根底に調和の力が存在しなければ、生きている状態を保つことすらできません。それは人間だけではなく、生物のいのちすべてに共通します。この宇宙にいのちが生まれて四十億年近く経ちますが、いのちのつながりは、四十億年の間一度も途切れたことはありません。私たちがその事に気付くか気付かないかにお構いなく、いのちは宇宙的な調和の働きのなかで数十億年の規模で続いています。今後も続いていくことでしょう。
わたしたち生きている存在すべてには、そうした「いのちの流れ」から託され続けた調和の力が奥底に流れています。体や心は、その代表的なものです。

 人は、生まれてから死ぬまで、一瞬たりとも自分の体や心と離れることはできません。とても大切な存在の両親も恋人も親友も先生も…別れる時がありますが、体や心だけが一瞬も途切れることなく一緒にいるはずです。ただ、私たちはずっと支え続けてくれている伴走者を大切にすることを忘れ、気遣いや感謝を後回しにしていないでしょうか。頭で学ぶ情報や概念的な知識に振り回されるより、常に自分と一緒にいる心や体とこそ、仲良くして、対話をすることが大切なことです。すべてはそこから始まります。

 医学や医療は、困ったひとをなんとか助けたい、という思いが原点にあり、体や心の知恵が凝縮されたものです。芸術、古典や神話、衣・食・住・・・あらゆるところに、体や心の本質は潜んでいます。この世界には色々な仕事や学問がありますが、どの仕事にも自分も周りも社会も幸せであってほしい、という思いが根幹にあるのではないでしょうか。子どもから大人に成長する過程であらゆる常識・固定観念・ルールを学びながら、そうした大事なことをすっかり忘れてしまっているように思います。良くも悪くも色々な知識や技術を学び身につけているはずですから、後はすべて使い方の問題です。ノーベル賞級の物理学の知識があっても、爆弾や武器を作ることすら可能なのですから、学問や技術の本質は使い方です。どういう社会を望むのか、共に育んで行く必要があるでしょう。
 医療の枠も定義も人間が決めたものです。私たちがどのような社会を作りたいかということをイメージしながら、時代と共にその原点を問い直す必要があると思います。それは他の領域でも同じ事です。人の体には六十兆個の細胞がありますが、無駄なものは一つもありません。すべて役割が違うだけです。仕事の役割も人の体と同じです。対立や争いではなく、この世界の調和を願いながら、色々な領域と協力していく必要があるのでしょう。体や心や魂と対話してそっと耳をすましてみると、「いのちの流れ」から人類が託されている祈りの声が聞こえてくる。そんな気がしています。


69号「人が幸せに生きられる社会を願って」 岸浪 龍さん2016.06


岸浪 龍(きしなみ りゅう)さん
おふくろさん弁当(アズワン株式会社)社長係
 513-0823 三重県鈴鹿市道伯5丁目23-26
059-370-2888  
連絡先メールアドレス ofukurosan_suzuka@yahoo.co.jp
おふくろさん弁当 http://as-one.main.jp/ofukuro/sb/sb.cgi?pid=0     
アズワンコミュニティ http://as-one.main.jp/ac/

人が幸せに生きられる社会を願って


今から11年前の2005年まで、私は不動産仲介・販売会社のサラリーマンでした。毎日、ノルマに追われ、プレッシャーと戦いながら、「会社とはこんなもの」と、諦めていることにも気付かない忙しい毎日でした。
 そんな時に「まったく新しい社会を作ってみよう」と、まだ諦めていない人たちに出会いました。今、三重県鈴鹿市で「アズワンコミュニティ」と名付け、共に活動しているメンバーです。当時は、名前はもちろん、コミュニティをやろうなどという意識もなく、「本当に人が幸せに生きられる社会ってどんなのだろう?」と、純粋に考えている人が居る、ただそれだけでした。「人間とは?」、「やさしい社会とは?」いろいろなことを話し合い、深めあう中、「当たり前」と思っていることも、全部0から考えてみよう、既成概念にとらわれない「会社」を作ってみるのもいいかもしれないと思うようになりました。

 人が自由に、生きたいように、やりたいようにやれる会社で思う存分能力を発揮すれば、サービスは向上し、生産性、業績も上がり、経済的な余裕が生まれ、心の余裕に還元されていく…。そんな「理想の会社」を思い描いて「アズワン株式会社」が2005年に誕生。その事業の中から、日に20食を作る小さなお弁当屋さん「おふくろさん弁当」も生まれました。「決まり」も「ルール」もなく、上司や部下の「上下の関係」もありません。「社長」と言っても偉いわけでもなく、「社長係」といったところです。
 理想を描いての出発でしたが、それまで身につけてきた「仕事だからこうしなくてはいけない」「そうは言っても…」といった旧来からの観念が邪魔をして、順風満帆とはいきませんでした。つい、仕事が早く、指示が出せる、いわゆる良くできる人を大切にし、仕事が遅い・できない人の上のような上下感が出て、その人の仕事観が全体の空気に大きく影響するようになりました。そんな時、当時の社長係から「明日から仕事に来やんとき~、こんな中で作ったもの食べさせんで…」と言われ、頑張って売上も伸ばしてきたのに、とショックでしたが、半年職場を離れ、自分を見つめ直しました。

 どこかに間違いの源があるのではないか、一緒に始めた仲間にも励まされながら、10年間、試行錯誤を重ねる中で、ベースになるのは「人と人との関係」だということに気がつきました。「どんなことでも安心して相談でき、話し合える人と人との関係」の実現が、どんな立派な教えや、システムや方法よりも、大切な核となる部分だと思います。「やらされたり、強制されたり」では、人はその持つ能力を十分に発揮できない。それが「おふくろさん弁当」をやってきて、一番感じるところです。今では毎日1,000食のお弁当をお届けしています。行くのが楽しみな職場で、みんなが笑顔で力を合わせて作ったお弁当は、味だけではない、何か大切な「心」も運んでいるような気がします。
 行動し、見えてきた課題を、持ち寄り、研究材料にしながら進んでいく、そんな試みが「おふくろさん弁当(アズワン株式会社)」です。私たちのこの小さな試みが、幸せな社会への一助になれば幸いと思いながら、志を同じくする方々と手を取り合って共に進んでいきたいと願っています。

70号「聖地を探して」井津建郎さん2016.09


井津建郎(いづけんろう)さん
写真家・非営利団体フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダー創設者
1970年からアメリカ、ニューヨークに在住現在に至る
フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJapan; www.fwab.jp
FRIENDS WITHOUT A BORDER USA; www.fwab.org
Kenro Izu Studio;www.kenroizu.com

聖地を探して


 これまで数十年間、写真家として古代の聖地、遺跡をライフ・ワークとして世界を旅してきました。20数年前にカンボジア・アンコールワットの撮影に訪れた時は、僕の人生がまさか今のような展開になるとは想像もしませんでした。
 初めてのアンコールワットの撮影に集まってきた子供達の多くが地雷、不発弾で負傷していました。翌年再び撮影に訪れた際に立ち寄ったシエムレアップ県立病院では目の前で女の子が亡くなりました。それが両親がわずかなお金を持っていなかったため、病院の医療スタッフがその患者を無視していた為だと知った時に湧き上がった今までに経験したことの無い悲しみと怒り。そしてこれまでTake (撮る)人生を送ってきたがGive (還元)したことが無かったことにも気づきました。

 ニューヨークに帰国して考えた末、 シエムレアップに無料の子供病院を作ろう!と決心 て日米の友人たちに発信、協力を頼みました。非営利団体「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダー」を有志仲間と結成してアンコール小児病院建設と運営計画がスタートしたのです。撮影したアンコールワット遺跡群の写真展と写真集が多くの人々を繋げるきっかけになり、2年間で小児病院建設資金を集めることができ、2000人以上の人々の友情が1999年1月アンコール小児病院開院として開花しました。
 フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーの病院のモットーは”全ての患者さんを我が子のように診療しましょう“という思いやりのケアです。あれから既に17年、成長したアンコール小児病院は3年前、現地病院スタッフに運営を委ね、現在毎日500人前後の患者さんの健康を守るだけでなく、医療スタッフを育成するカンボジア有数の教育病院となりました。
 フレンズは、小児病院の現地化と同時に蓄積したノウハウを活かして、カンボジアとともに最貧国の一つお隣ラオス、ルアンパバンに無料小児病院の建設と運営計画をスタートしました。医療衛生レベルは非常に低く、幼児の死亡率は日本の10倍以上です。2013年末に保健省との合意と鍬入れ式を行い、2015年2月にラオ・フレンズ小児病院が開院しました。現地医療スタッフの教育は進行中、外来診療から始めて、入院病棟、そして救急室を開き、2016年7月に手術室をオープン、今後は新生児ケア室、集中治療室などを逐次開いていく予定です。

 これまで30年以上、聖地や遺跡を聖なる空間として人間を入れずに撮影してきたのが、アンコール小児病院設立以来、聖地を守る人々の存在に気付き、聖地周辺の人々も入れての作品に進化してきました。またラオ・フレンズ小児病院計画が開始した頃から、聖地とは遺跡のような特別な場所にのみ存在するのではなくて、人々は心のなかに『聖地』を持っていると感じるようになり、最近作の『インド・永遠の光』を制作しました。インド社会の底辺にいる人達も遠くのかすかな光(希望)に向かって生きて行く、彼らが生き、そして死にゆく姿に尊厳を感じて撮影をしました。
 独りで考え制作する写真とは異なり、多くの人々との共同作業である病院建設と運営を通じて学んだ結果かもしれません。作品を振り返ってみると、それぞれの転換期ごとに写真以外の活動が反映されているのが見え、全ての行動が繋がって人生はあると納得させられます。

71号「時を読み兆しに気づく」高月美樹さん2016.12


高月美樹(たかつきみき)さん
和暦編集者、ソーシャル・ファシリテーター。
167-0051 東京都杉並区荻窪1-45-16 LUNAWORKS
&fax. 03-5397-0617
e-mail:info@lunaworks.jp
http://www.lunaworks.jp

時を読み兆しに気づく

 日本人が古くから使っていた太陰太陽暦に気づいたのは15年前でした。ある武道家の勧めで、それまでの5年ほどバイオリズム日記をつけていました。人の身体に経絡(けいらく)があるように外側にも経絡があり、身の回りの環境すべてのものから影響を受けているという考え方で、偶然出会うもの、人、場所、食べ物などで変化する体調に、人は無自覚で鈍感になっているのではないか。頭で考えていることと、身体の反応が違っていることがある。そんなズレを確かめるためのバイオリズムチェックです。
 
 どこかに行ったり、誰かに会った翌日の体調はどうだったか、心の好調・不調など、スケジュール帳を眺めると、そのときの気分や体調が思い出されます。不思議な夢や、ばったり道で出逢った人、かけようとした人からかかってきた電話などの奇妙な偶然、ふっと頭をよぎったことや、ちいさなひらめき。そんなことをたまにつけていたあるとき、いつも満月のときにトピック的な出来事が起きていることに気づいたのです。
 それは目に見えないことであっても自分にとってはハッとするような気づきであったり、エキサイティングな出来事であったりとさまざまですが、また満月だなと思ったのがきっかけで、月の満ち欠けをベースにした日本古来の時間軸に興味を持ったのです。
 月と太陽、地球の生命を支える二つの天体。太陰太陽暦はその動きをほぼ正確に知ることができる暦です。高度な天文学によって紀元前の中国で完成し、月をみれば日付がわかるシンプルなもので、月の(さく)(ぼう)に農耕のための目安となる二十四節気、七十二候と組み合わせ、アジアの多くの国々で使われてきました。日本でも明治の改暦まで使われていました。四季豊かな日本の暮らしに、季節を知ることはなによりも重要で、歳時記や季寄せは先人の智慧、感性の集積として今日に伝えられています。現在の西暦は便利なものですが、それまで使われていた季節の情報もなくなってしまったのです。
 
 これに気づいた当時、太陰太陽暦(旧暦)をベースにした手帳はありませんでしたので、こんなものがあったらいいのでは、という思いに駆られて作り始めました。自然に寄り添う暮らしを願う人々に支えられて広がり、十年目にそろそろ日本のもうひとつの時間軸として定着してもよいのではないかという思いから、タイトルを『旧暦日々是好日』から『和暦日々是好日』に変更して、今日に至っています。
 和暦を学び、少しずつ歳時記に詳しくなってきて思うことは、先人の知恵は過去のものではなく、未来のためにあるということ。人間は生きているのではない。生かされているのだ、という思いを、制作しながら年々強くしています。暦は、何かに気づくための目安で、本当に大切なのは先人の叡智を借りながら、自分の直観で兆しやサインを読み取る力、そして主体的に生きる力なのではないかと思っています。
  太陽と月、陰と陽、光と闇。統合の時代といわれる今、月のように陰とされ、闇とされてきた部分にしっかりと光をあて、大きな声にかき消されてきた小さな声に耳を澄ませることの大切さを、ひしひしと感じるこの頃です。

72号「社会の中に生きる」ウォン・ウィンツァンさん2017.02


ウォン・ウィンツァンさん
ピアニスト、作曲家、即興演奏家
SATOWA MUSIC http://www.satowa-music.com/
音楽と、楽しく優しいトークでお送りするPodcast番組「ウォン&はるかのムーントーク・カフェ」もホームページからアクセスできます

社会の中に生きる

私はピアニスト、作曲家、心理ワークのファシリテーターもしています。現在NHKで放映されている「にっぽん紀行」と「こころの時代」のテーマ曲は、お聞きになった方もいらっしゃるかもしれません。
 私の父母の家系は殆どが商売人で、父は香港の華僑の家系です。でも母型の祖母は神戸の芸者さんでした。私の音楽の遺伝子は日本人の祖母から受け継いだに違いありません。
19歳からプロとして活動をはじめましたが、自分の音楽スタイルを確信するまで、ほぼ20年かかりました。それまでは、暗中模索しながら、生きるために、所謂音楽業界の中で働いていました。スタジオミュージシャン、タレントさんの伴奏、テレビCMの作曲などで、生き繋いできました。とっても苦しい時代でしたが、今思い出すと、その修行時代は私が精神的に自立するのに必要だったと確信します。

 特にTVCM制作は… 私の上には音楽プロデューサー、音楽制作事務所、映像制作プロデューサー&事務所、広告代理店、クライアント、そして社長と、それこそ士農工商作曲家、みたいな感じです。私の制作したCMを、あらゆる部署の偉いさん達にプレゼンせねばならないのです。その試練は、コミュニケーション力、相手の気持を察する能力、自分の思い込みを手放す修行、自分の思いを伝えるスキル、何を言われようが自分を失わない強さ、それらを学ぶにはなかなか得難いシチュエーションでした。
 40歳で、ようやく人前で演奏したり、自作の曲を披露できるほどになりました。その時、業界から身を引いて、奥さん(店舗デザイナーで、クリエイター)と二人でインディーズレーベル“SATOWA MUSIC”を立ち上げました。私たちは、業界で培ったスキルを使って、レコード業界のシステムでは作れない音楽やCDジャケットを、インディーズであるからこそ作ることが出来ると確信していました。あるレコードメーカーの方が私たちのCDを見て「これはメーカーでは絶対制作できない」と感嘆していました。

 SATOWA MUSICはこの25年ぐらいの間に30タイトル以上のCDをリリースすることが出来ました。それも、あの修行時代に、制作スキルと、コミュニケーションスキルなど、社会でしか得られない技量を得られたからに他ならないと思います。私たちには33歳になるミュージシャンの息子がいます。彼にもなるべく多くの人と関わり、なるべく広い音楽スタイルスキルを学び、その中で必然的に現れる「自分のスタイル」を楽しんで欲しい。人間は社会の中でしか成長する機会がありません。どんな人も、自身の生き方を生きるためにも「社会化」は絶対必要なのだと思っています。
 さて、私たちは昨年、平和をテーマにした楽曲「光を世界へ」をリリースしました。このCDの制作では、沢山の友人達がボランティアで参加してくれました。CDの収益は平和活動をしている4つのNGOに送られます。そんな活動ができるのも、友人知人、そしてオーディエンスに支えられているからだと、感謝の気持ちが湧いてきます。
人間は一人では幸せになれない。ひとりの人間として、しっかりまっとうな、健全な人格を成長させ、沢山の愛する友人に囲まれてこそ、本当の幸せがあるのだと、つくづく思います。

73号「黒胡椒に平和の願いを込めて」倉田浩伸さん2017.05



倉田浩伸(くらたひろのぶ)さん
KURATA PEPPER Co., Ltd.(カンボジア)社主・代表
株式会社クラタペッパー(日本)
482-0021 愛知県岩倉市新柳町1-35-1-B-507
TEL0587-81-3207  FAX0587-81-3610
e-mail : japan@kuratapepper.com
http://kuratapepper.com
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黒胡椒に平和の願いを込めて

 私のカンボジアへの想いをたどると、中学の世界史教科書にあった一枚の写真に辿りつきます。戦場カメラマン沢田教一氏による「安全への逃避」と題されたベトナム戦争の写真。第二次世界大戦時に空襲警報の度に逃げ惑った両親の話と重なり、戦争は、なぜ起こるのか、という疑問を抱き始めました。
 1985年、中学3年の時に観た映画「キリングフィールド」で、ポルポト時代のカンボジアを背景にした大虐殺の光景に衝撃を受けました。一度観ただけでは、全く理解ができず、興味はカンボジア内戦へと移って行きました。同じ時に実兄を交通事故によって亡くし、戦場でなくても人が人の命を奪うことがあるという事実を目の当たりにした瞬間でした。
 “生きる”とは何か。次の年の春、兄を亡くし傷心だった私を両親が出してくれたオーストラリアへのファームステイの帰路、偶然よった香港で初めてスラム街を目の当たりにしました。スラム街で“生きる”人々と、日本で生まれ育った自分との“生きる”環境の格差に心を痛めました。この両親の元へ生まれたことへの感謝と、こんな格差から平和が崩されていくのではないか。何故、世界経済社会では、このような不公平が生まれるのか。そんな想いを募らせたまま大学生となります。
 語学研修でアメリカに居た19911月湾岸戦争が勃発、同じ寮のアメリカ人学生に、「日本人はお金を出すだけで人的貢献を世界にしていない」と揶揄され、真剣に国際貢献を考えるようになりました。10月、カンボジア和平が締結され、始まった国際協力NGOの活動隊プロジェクトに19928月にボランティア隊員として派遣されました。内戦が終結したばかりのカンボジアでの活動は、日本という温い環境の中で生きてきた自分にとって大きな衝撃でした。地元の人々が与えられた運命の中、一生懸命に“生きる”姿から、本当の幸せとは、人々が平和で暮らしていくために本当に必要なものは何か、多くを学びました。
 戦争をしなくても済むような社会づくりにもっと関わりたい。国の再興には産業の育成が大切と思い、農業国のカンボジアでは、先ずは農業に関わることが責務と考え現在のクラタペッパーの前身となる事業をスタートしました。「カンボジアの農産物の中から、世界に誇れる逸品を探したい。」と各地方を回りましたが、なかなかいい商材が見つからない中、偶然親戚の大伯父から1960年代のカンボジアの農業統計資料を入手しました。
 カンボジアの人々がいつも懐かしく思い出す1960年代のカンボジアは、東南アジアで一番栄えていた国で、当時の代表的な輸出産品の一つとして、世界一美味しいと言われた胡椒が掲載されていました。ポルポト時代(1975年4月~)に、胡椒農園は壊滅的な打撃を受けましたが、支配から解放されたコッコン州の元胡椒農家が自分の農園に戻った時3本だけ生き残っていたコショウの木を、少しずつ本数を増やして1995年にその農家を訪れた際には家庭果樹園規模の胡椒農園が復活されていました。
 もう一度“世界一”良質な胡椒と言われるようにとの願いを込めて、現地の人と共に伝統的な農法で事業を興し、最近、ようやくカンボジア農産品のトップテン商品としてカンボジア政府にも認められ始めました。良質な胡椒作りを通じて、世界が平和に過ごせるように広めていきたいと願っています。

74号「地球環境への祈りの行脚」藤本倫子さん2018.05


藤本倫子(ふじもとみちこ)さん
環境カウンセラー
住所:藤本環境オフィス 
福岡市南区寺塚2-20-1 えがおで寺塚511 〒815-0074
   ℡ (092511-0030 FAX(092)511-7777

地球環境への祈りの行脚


「波乱万丈の人生でしたが、人間は本当に真剣にやろうと思えば何でもできる。どんな時でも自分がやっていくという気持ちになったらできないことはないんです…」
70歳から環境改善運動に身を投じ、全て自費で研究開発、地球環境への祈りの行脚をしてこられ、今も循環型社会への熱い思いが溢れ、願いに向かって邁進される95歳現役の環境カウンセラー藤本倫子さんのお話を伺いました。その人生は、一人で何人分を生きられたかと思わされるものでした。

― すべては1人から始まるとの思いで生きてきましたが、70歳を迎える頃、多くの方々に支えられてきた人生、残りはご恩返しをしなければ生を受けた意味がないと思うようになりました…。危機に瀕している地球を次代へ受け渡して良いのかという思いが日増しに強くなり、生ごみを燃さなければCO2の排出が減ると気づいて猛勉強し、酵素に行き着きました。酵素研究者の元に通って誕生した生ごみ処理機「くうたくん」は、人間の胃の中と同じように生ごみを消化してくれます。子や孫の世代が安心して暮らせる地球を残したくて、生ゴミ完全リサイクルを広めるため全国の役所に約3000通要望書を出し、10年間で千軒近く回り、全国380か所の学校もまわってごみ減量の必要性を長年訴え続けからか、平成22年「地球環境温暖化防止活動環境大臣賞」を頂きました。

 朝鮮半島で生まれ、育ち、終戦で引き上げ。大好きな教職では大家族が暮らせないので、学校給食の食材を納める商売を始めようと一念発起して地元の銀行からお金を貸してもらってスタート。こまめな返済が信頼され、新しい納品先をいろいろ紹介してもらいました。ところが、昭和38年に政策で突然炭鉱閉鎖が決まり、取引開始してまもない75社の長崎石炭生協に納めた1178万円が未収となり事業開始15年目に黒字倒産しました。
 こんなに真面目にやっても国が騙すようになったらおしまいと思い、死のうと普賢岳を登る途中、目の不自由なお坊さんに声をかけられて教えて頂くうち、もう一度裸一貫頑張ろうと思いました。再出発を期し、知る人のない別府で生命保険の外交員になり団体契約専門で33年間働きました。お世話になった銀行の支店が、大分にできる看板を見て、お礼がしたいと、先々でその支店の応援をお願いしたところ驚くほど預金が集まったそうです。私を覚えておられた頭取が「借りたお金を返さない人はいるけれど、恩に感じてここまでする人はいない」と契約を切り替えて下さったこともありました。

 環境活動資金は、生命保険時代に頂いたお金を寄付して「藤本倫子環境保全活動助成基金」を作り、「くうたくん」の売上もその基金に入り、今後環境活動をされる方々の支援金として使って頂きます。世界中の一人ひとりの心に、熱意と誠意と創意が芽生えれば、きっと青く美しい地球を次代へバトンタッチできると思います。

― 観音様に感謝しつつ、夢を語られました。保証人、大病等々その一つですら自分だったら立ち直れないと思うようなことを体験されているにもかかわらず『騙されても、人を恨んだら近道はない。自分が甘かったと反省し、くよくよせず頑張る』と言われました。目の前の困っている人、事を見過ごしにできず一途に生きられた人生に、ご両親の教えを伺ったところ「父からは“責任を持つこと”、母からは“困っている人は助けなければいけない”と躾られました」。覚悟をもって引き受けることのすごさを教えて頂きました。

75号「何にもないから何でもある。限界集落から見えてくるもの」
寺島純子さん 2018.07


寺島純子(てらじまじゅんこ)さん
有限会社オフィスエム代表取締役、
380-0821 長野市上千歳町1137-2 tel 026-219-2470 Fax 026-219-2472
のぶしなカンパニー代表
381-2421 長野市信州新町大字信級字中村5554-1
e-mail: info@o-emu.net
URL:オフィスエム 
https://www.nobushina.com/ のぶしなカンパニー

何にもないから何でもある。
~限界集落から見えてくるもの。

 私は、長野市で小さな出版社を営んでいる。外付けのらせん階段しかない古ぼけた小さなビルに越してきて5年。少しずつ手を入れながら蘇らせてきた。このビルと付き合っていくうち、人生の下り坂をまっしぐらに突き進んでいる自分と重ね合わせてみるようにもなった。時代は古いものはどんどん壊して新しいものを買えばいいという風潮である。でも、そんなふうにして築いてきた現在の暮らしは果たして豊かになったのだろうか。スマホさえあれば辞書も要らない、新聞もいらない、本なんて読みませんという若者が増えている。切り捨てられてゆく古いメディア、古い建物、古い人間……。時代に逆らうように私たちはポンコツビルにこだわり、出版にささやかな誇り、いや「意地」をもって生きてきた。
◎何もない。それがどうした。
 私が3歳まで育った信州新町の信級(のぶしな)は人口約13060世帯。人口の60%ぐらいが65歳以上という高齢化・過疎化が進んだ限界集落である。村には水道がない。当然ながら下水道もない。信号もない。店もない。横断歩道もない。とにかく何もない。水は各家が湧き水を引いている。この地域にお金をかけたところで回収の目途が立たないということらしいが、村の人たちは「それがどうした」という風である。
 2000年、今、記録しておかなければ、いつかは村が消滅するかもしれないという悲痛な願いから写真集をつくりたいという相談があった。1年間かけて出来上がったお祝いの席で、村がいつか地図から消えてなくなってしまうなんて嫌だ、と言って大泣きをした時から信級と関わって生きていきたいと思うようになり、取り組みに対する名前を「のぶしなカンパニー」と名付けた。20175月から村のまん中にある元農協の精米所だった蔵を半分手作業で改造し、もらってきた板や古材などを利用した「ひろってきた食堂」みたいな建物で「かたつむり」という村唯一の小さな食堂を始め、金曜日の夜はバルも営業している。
 高齢者ばかり、歯が抜け、手が震え、腰が曲がった人たちが、朝から晩まで働く。私たちはそういう年寄りたちから山のこと、水のこと、さまざまな生活のことを教わり、助けてもらって生きている。世の中から見放された村で、世間から価値がないと思われているお年寄りたちが、なんと自由に、美しく、たくましく、楽しそうに生きていることか!

 「地域活性化」というけれど、活性化なんて失礼な話である。逆に、私たちが失ってしまった「生きる力」を信級で一つ一つ回復させてもらっているのである。ミヒャエル・エンデの「モモ」のなかで、時間泥棒から時間を奪い返しに行くと、カシオペイアという亀が「ゆっくりいくのが一番早い」と言う。その通り。信級には、戦後の科学技術の急速な進歩と経済最優先の価値観のなかで失ってしまった大事なものが生きている。
 これから日本や世界がぶち当たるであろう壁を突き破っていく力は、もはや都会にはない。あるとすれば、信級のような僻地の、小さな営みのなかにある。出版も、のぶしなカンパニーも、きわめてアナログな取り組みである。顔を合わせて、土にまみれて、語りながら、笑いながら、無駄なことを一生懸命やり、効率なんて考えず、季節の移ろいや、小さな虫けらに心を致しながら、来るべき未来の扉を開けていく底力を蓄えていきたいと思っている。

76号「いのちの喜び溢れる未来が見たい」
岩崎靖子さん 2018.11


岩崎靖子(いわさきやすこ)さん
映画監督・NPO法人ハートオブミラクル
兵庫県伊丹市千僧5丁目91番地1、9-302号
電話番号08037814658
アドレス yasuko-i@heartofmiracle.net
ホームページ ハートオブミラクルhttp://heartofmiracle.net/index.html

いのちの喜び溢れる未来が見たい

 ドキュメンタリー映像作家をしています。ドキュメンタリーが大好き、人が大好きです。もともとは、引っ込み思案で人付き合いが苦手。人前が大の苦手で、自分の殻に閉じこもっている人間でした。そんな自分を何とかしたくて、コーチングという自己開発の勉強を始めます。師匠の岸英光さんが言いました。「苦手」や「嫌い」の奥には、「興味がある」「大好き」があるんだよ。確かにそうだ!本当は人が好き。自己表現してみたい。溢れるような想いに、自分が一番びっくりしました。普段「これが好き」と思っている事の外側に、本当に自分が求めているものがあるのかもしれません。

 大好きなドキュメンタリーを自分で作ってみよう!人づきあいが苦手なので、一人で作ろうと悪戦苦闘。挫折しかけた時、映像の仕事をしている友人の小野敬広さんに勇気を出して、助けを求めました。小野さんは機材を自由に使っていいと言ってくれ、編集の仕方も教えてくれました。
 山元加津子さんの「宇宙(そら)の約束」に心を揺さぶられ映画制作を開始しましたが進んでいく中で、資金が足りなくなって来ました。ピンチ!です。その時、不思議な名前で寄付がありました。窮状を察した小野さんが、何も言わず亡くなったお父さんや愛犬の名前でしてくれたものでした。それも、簡単に出せる金額ではありません。泣きました。私は一人で何でもやれるし、生きている気になっていました。違いました。私の知らないところで、たくさんの人が支えてくれている。だから私がこうして活動していられる。ピンチを乗り越えさせるものは、自分の能力や努力も必要ですが、もっと大切なものは“人との絆”だと思いました。
 
 人と人がどうやったら幸せに一緒に生きていけるかを、映画づくりを通して探究し始めました。小さい頃、両親が幸せそうに見えなかったのです。神経をすり減らすきつい仕事についていた父は、抱えたストレスを家で発散しました。母は何も言わず従っていましたが、こっそり壁に向かって涙をぬぐっていました。では父が悪いのかというとそうではありません。マイホームを建て、三人の子どもを育てるために、必死に仕事をしていました。誰も悪くないのに、みんなが辛そう。どうしたらみんなで幸せに生きていけるんだろう?それが私のテーマだった気がします。
 映画を観て下さった方が、「許せないと思っていた母親に、今度会いに行こうと思います」とか、「自主上映をしている内に、だんなさんが協力的になって、家庭の中がとても平和になったんです」と言って下さるようになりました。小さい頃の悲しみが、こんな形でお役に立てたと思いました。悲しみの中に使命がある、という言葉を思い出しました。
 
 今、私は、人だけでなく、虫や草や動物、微生物も含めてみんなで幸せに生きられる地球をテーマにしています。科学文明の発達により、生物が年間4万種というスピードで絶滅していく今、人類は舵を切る時に来ているのだと思います。答えは簡単には出ません。だからこそ、人の絆で、みんなの知恵で、乗り越えていきたい。命の喜び溢れる未来が見たい。それが私のワクワクの源です。

77号「環境の再生、自分の道の再生」
高田宏臣さん 2019.05


高田宏臣(たかだひろおみ)さん
株式会社 高田造園設計事務所代表
265-0051 千葉市若葉区中野町2171-2
☎ 043-228-5773
メール:Info@takadazouen.com
URL:http://www.takadazouen.com
地球守ブログ
「造園と環境」全文こちらにあります。

環境の再生、自分の道の再生

 僕が造園の仕事を始めたきっかけは、放浪の旅の途中のことでした。登山に明け暮れた高校時代、自然環境を守る仕事がしたく都内の大学で森林、林業、土木を学びながら、わずかなお金と大きなザックを担いで旅する生活を続ける中、沖縄でお金が尽きかけ、働かせてもらった造園の仕事にすっかり魅了されました。
 ただ、その土地の歴史に何の関係もない庭木を用い、風土や暮らしと関係のない庭園を日常生活の場に作ることの意味が分からなく、戻って復学し、自然樹木を尊重して庭を造る茶庭師の下で修業し数年後独立しました。
 その土地を守り続けてきた何気ない自然の木々を、庭園樹木の主木として扱うことで、山と街とが環境としてつながり、千年万年の営みと現代とがつながり、そこに郷土愛も郷愁も育まれるもの。未来を思い、土地を思い、子孫を思う土地の暮らし人の誠の積み重ねが大地の祝福を受けて、そこに風土環境が育ってゆく、それこそがまぎれもない、地球における人の本当の役割であります。一貫して、その土地の自然植生樹種を組み合わせて庭を作ってきた理由はそこにあります。
 
 30代初め転機が訪れました。鎌倉市で、山を背負った住宅地開発に伴い宅地造成許可基準のために裏山のキワに作った分厚いコンクリート製の擁壁。その設置後数か月で植生は荒れ果てて地表は乾き、しっとりした鎌倉の山らしい面影は見る影もなく消えてゆき、2年後、その擁壁の上の裏山の環境を守ってきた100年のケヤキの大木が突然に、根こそぎ倒れたのです。擁壁建設による水脈の遮断、それにともなう土中の水と空気の流れの停滞が招く、土中環境の劣化により、根が枯渇したためでした。
 人にも環境にも健康な場を創ろうとしてきたのに気付かず周辺の環境まで痛めてしまっていた…、愕然とする出来事でした。同時に、大地の環境は土中でつながっているという、当たり前のことに気づかされた瞬間でもありました。その後全国の土砂災害や水害発生地、森林崩壊現場を見て回るようになり、土中環境に深く意識を向けるようになりました。
 
 そんな視点で山々を歩き、地域を旅してまわる中、道路一本、ダム一つ、トンネル一本といった今の建設土木構造物がどれほど広範囲の環境を壊してしまうか、目の当たりにしていきました。現代の建設土木においては、自然の働きを、より大きな重量と力で抑え込もうとする、力学的な発想のみで対応しようとします。が、自然環境は、その力比べの果てに環境を浄化する力も、いのちを養う力をも失っていきます。
 それまで取り組んできた、すべての先入観も技術も造作も、徹底的に見直して、日々、傷んだ環境の再生に取り組む中、古来の土木造作の中に、現代の私たちが見失ってしまった大切な智慧が次々と見えてきました。長い歴史の中で、風土に根ざして豊かな文化を育んできた先人たちは、その営みの中で環境をもより豊かに、より、いのちの生産力の高いものへと育み続けてきた果てに、私たちが生きていける環境へとつながっていたのです。
 
 安全も環境も、そして美しい故郷の山河も何もかも、急速に失われています。それは、環境のつながりも、守るべきものは何かも、今の暮らしの中で忘れてしまったことに始まります。新たな文明社会へと人は進化しないといけません。大切なことは、一人一人の気づきから、そのために、残りの人生を未来のために、投じていきたいと思います。

本文は、お寄せ頂いた原稿をまとめたものです。全文こちらでご覧ください。

      


21世紀の生き方を考えよう

これまでの価値観では持続可能することがむつかしくなっています。新しい生き方・暮らし方一緒に考えてみませんか?

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お耳拝借

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新得農場代表 宮嶋望さんに学ぶ自然の力

つながるいのちの感謝祭 2011.1120

2011年、いのちの感謝祭 べてるの家向谷地さん&べてるの仲間たち

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ドキュメンタリー映画「森聞き」上映会&トークセッション

ともしびの巡礼~ワタリガラスの神話と祈りの音2011.0910

共にガイアシンフォニー出演のボブ・サムさんと奈良裕之さんの神話の会

つながるいのちの上映会vol.2「ミツバチの羽音と地球の回転」2011.0731

映画「ミツバチの羽音と地球の回転」&トーク&分かち合い

いのちの響きを紡ぐ二人の世界2011.0618

山元加津子さん&鈴木重子さんのジョイント

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映画「幸せの経済学」&トークセッション&ワークショップ

江戸の知恵、日本人の心 2011.0313

江戸の語り部辻川牧子さんの「もうやっこ寺子屋」

山田周生さんエコトーク&丸山さんライブ2011.0220

終了しました

てんぷら油で地球一周山田周生さんとビリンバウの丸山さんトーク&ライブ

つながるいのちの感謝祭  2010.10.09

2010年10月9日終了しました。
いのちのてざわり感じていますか

たかはしべん“心のおくすりコンサート”

終了しました。

山元加津子さんの思いっきりkakkoワールド

2010年6月13日終了しました

今年のkakkoワールドは、じい こと小林正樹さんとのジョイントです

いちじくりんLinkIcon

水野スウさんの”ほめ言葉のシャワー”ワークショップ

2010年6月26日終了しました。

大人気の水野スウさんの「ほめ言葉のシャワー」お話とワークショップ

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今日も賑やかな会社のあれこれ